校名となった「八風」の由来    


 沿革にも記しましたが,本校は旧朝上・竹永・保々3ケ村の学校組合立として発足しました。その3ケ村を東西に貫き,結び付けているのが“八風街道(県道621号線)”であったところから,校名に選定されたといわれています。
 旧3ケ村を貫くものとしては,他に“朝明川”がありますが,“朝明”中学校という校名は,一歩先んじて川下の八郷村において誕生していたことから,“八風”を選んだと思われます。

 さて,“八風”という名は,なじみのない人には,いっぷう変わった印象を与えると思います。これが地名によるというのは地元の人であれば誰もが知っていることですが,では,その地名は何に由来するのでしょうか。

 一般に街道というのはその目指すところの地名を以って命名されることが多く,八風街道もまた,八風峠に因(ちな)むものであることは言うまでもありません。

 ところで,八風峠の初見は,鎌倉時代のいわば正史である『吾妻鏡(東鑑)』ですが,そこでは「八峯山」と書かれています(1204年)。
 時を経て,戦国時代の連歌師宗長の日記では,「八峯たうげ」と書かれています(1526年)。
 それが近世に入り,「八風」とも書かれるようになります(『勢陽五鈴遺響』など)。

 その結果,明治時代になり,漢学者舘通因は,奈良時代に編纂されたわが国最古の地誌『風土記』の中ある『伊勢風土記逸文』から,伊勢の国の名の起こりを綴り,その中にある伊勢津彦命退去の際の挿話(伊勢津彦命が巻き起こしたという“八つの風”のゆかりの地が八風峠だった)と結びつけて解釈しています。

 ただ,こうした解釈は,牽強付会(けんきょうふかい=自分の都合の良いように理屈をこじつけること)と言うべきかもしれません。


(「三重菰野『歴史こばなし第6集』(平成15年3月10日菰野町役場発行)」,「八風中学校50周年記念誌」,「本校の『学校要覧』」に記載されている内容を,整理して記載。)