コメシリーズJ
竹成米の話
国際コメ年

 これまでさまざまな角度からコメに関するお話を紹介してきました。今月は菰野町で発見され、日本で大いに栽培された品種である竹成米についてのお話です。

松岡直右衛門  嘉永元年(一八四八)に中菰野村の佐々木惣吉が中手の優良品種として評判の「関取米」を発見しました。そのことを知っていた竹成村の松岡直右衛門はかねがね竹成の風土に合う稲を作り出したいと念願していました。
 明治七年十月、直右衛門は作付けした「千本撰り」の稲から三本の優れた稲穂を発見しました。その穂から千粒ほどの種を取り、翌春、種をまき、苗を試験田へ移植して育成の結果、秋に七升五合の原種を得ることができました。稲の実験栽培は年に一回、その特性を固定させるには数年を要し明治十年ようやく自信ができ、近隣の農家へ奨めることになりました。種子の頒布を受けた村人は、直右衛門の名に因み「直」とか、倒伏するくらいによくできると、一反に十俵の収穫があるほどであるということから「倒十」の名でよんでいました。
竹成米(右)と関取米=中菰野の大塚文平さんが栽培した稲  当時、竹成村の里正であった鈴木又市は「倒十」の名を改め「竹成」と命名して村内に採種田を設け、郡農会を通して「竹成」の種子の普及頒布につとめました。明治三十二年には東海地方一円に、同三十八年には関東から中国、四国地方にまで栽培されるほどになりました。
 「竹成米」の特性は、草丈が短かく、分けつ性の盛んなこと、このことは、明治になって日本の稲作も自給肥料から、にしん粕・ほしかを用い多肥栽培に移行するときで、これに耐え得る稲がのぞまれていました。あたかも「竹成」の出現はこの時代の要求を満たすもので、たちまち太平洋側の稲作の代表品種となりました。
 また「竹成米」を母本にした多くの新品種も育成されました。その代表的な傑作は、大正十五年愛知農試で「京都旭」と「竹成」を交配した「愛知旭」があり戦前には菰野あたりでも作付けされたなじみ深い品種でした。このほか「農林三号」・「関東二号」・「東山十九号」など有名奨励品種の母本にもなっています。
 直右衛門は、天保七年(一八三六)音羽村の吉原友右衛門の五男に生まれ、安政元年(一八五四)十九歳のとき松岡家へ養子に入り、田一町余り、畑六反を耕作し、明治三十四年一月二日六十六歳で死没しました。
竹成大日堂の境内にある竹成米広益碑(広益=社会一般に利益を与えること)

※「中手」=早稲(わせ)と晩稲(おくて)との中間期に熟する稲の品種
※「里正」=里の長、村長のこと

*********************************************************************************************************