菰野の川 B
三 滝 川

 三滝川は、鈴鹿山脈の主峰御在所山(1,212メートル)、その南の鋭鋒鎌ヶ岳(1,161メートル)、 そして北の国見岳(1,170メートル)、この三山から流れて落ちる百間滝、潜戸の滝、蒼滝の三瀑布のあることが名の起こりとなっています。 そして支流の鳥井戸、金渓、矢合の三川が流れ込み総延長22,525メートル、 菰野町、四日市市域を流れて伊勢湾に注ぎ、古くは三重川ともいわれていました。


蒼滝
三瀑布の一つ「蒼滝」は夏でも
涼しさを感じさせる
三滝川と鈴鹿山脈


 水源の御在所をはじめ、鎌、国見も火山帯の花崗岩で形成され、藤内壁、オバレ岩、地蔵岩、 大黒岩などの奇岩怪石が点在しています。 これらは長年の風化浸食作用で生まれた自然の造化によるもので、 いたるところに素晴らしい渓谷美を見ることができます。
 御在所山の藤内壁の北側、標高800メートルの国見岳の中腹には、平安前期に天台宗三嶽寺が創建されていました。 それはこの清浄の山地に薬師如来を本尊とする比叡山の末寺で、山岳信仰とあいまった修行地でした。
 そして国見岳の嶽屋敷だけやしきに嶽不動、蒼滝不動、 宗利谷そうりだに不動を祀り、干ばつ時の雨乞い、 毎年夏祭りの供養を行ってきました。また、湯の山の清気せいき橋から神明橋までは、 御幣川おんべとよび、毎年6月16日、この谷川でアマゴをすくい、薫製にして伊勢神宮へ献納する風習が、 明治二十年ごろまで続けられていました。
 三滝川からは水田の利水に、古くから 井堰いせきで締め切り取水していましたが、 洪水の度ごとに木工井堰は流失の災害を受けました。困った百姓の願いを受けて、 西菰野村の庄屋、矢田宗九郎は、寛政十一年(1799)に目論見書を菰野藩に提出して許しを乞い、 早速測量に着手、設計図を引き百姓の同意を得て工事に着手しました。 木の根を掘り、大石を割り、水路を 開削かいさくしての難工事を文化元年(1804)に完成させました。 菰野の西部の水田百町歩(100ヘクタール)余は、今もその恩恵を受けています。
 また、菰野富士の裾に広がる江野高原は、三滝川が山地を 開析かいせきして造り上げた典型的な扇状地です。 この西江野には縄文人が住み、狩猟と木の実を採取しての生活を営んでいたと思われます。 三滝川右岸の大羽根園は、地名を 「大刎」おおはねとよび、 三滝川の氾濫原で本流と支流の鳥井戸川の合流地点に当たります。 上流から運ばれてきた土砂が堆積して広い川原になり、流路は左右に蛇行して氾濫を繰り返し、 ここで激流を大きく刎ね返して水害を防いだことから「大刎」の名が生まれました。 大羽根園は、江戸時代は藩の御用林と民の割林になっていました。 当時三滝川に橋を架けることは許されず「巡見使」の通行の時に限り、臨時の板橋を架けました。 明治二十年になり吉沢橋が初めて架けられました。今新しい菰野大橋からの眺めは、連なる山々は青く、 水は清くまさしくふるさとの景観です。


菰野大橋から見た三滝川と鈴鹿山脈
菰野大橋から見た三滝川と鈴鹿山脈