菰野の川 C
竹谷川

 竹谷川は流路の延長7,450メートルで、海蔵川の支流です。この川の起点は音羽と潤田の接点、国道306号の信号があるあたりで、それから県道千草・赤水線に沿い潤田から吉沢、大強原地区の境を東へ貫流して四日市市域の下海老、 赤坂付近で本流の海蔵川へ合流しています。
 振り返り西の方を眺めてみると、菰野富士(369メートル)の北方に鷹塚、 鷹の尾とよぶ小高い峰が続き、その下の平坦な扇状地に三重カンツリークラブがあります。 その緑の芝生が広がる所が「竹谷」で、この竹谷川の名の起こりになっています。 ここは千草の入会地で、集落に近く平らな土地ゆえに草刈り、小柴の採取地に利用されていました。 その原野が日露戦争後は、名古屋の陸軍第三師団の演習場に指定され、 駐屯の兵舎も建ち兵士の訓練場となっていました。
 終戦後は開放されて開拓地、さらに昭和三十五年(1960)ゴルフ場に造成されました。 そして竹谷に隣接する音羽地の英
(はなぶさ)、嶽道(だけみち)あたりから東についても、 県道の拡幅や耕地整理などが行われています。こうして千草の竹谷の滲みだし水を水源に、 あちこちの水を集めて東へ流れ、潤田地内で一つの川の顔を見せていた竹谷川の水源は、 大きく様変わりしました。しかし川の名は昔からの水源地の竹谷の名をとどめています。
 なお竹谷川沿いの音羽は、中世のころ、国見岳(1,170メートル)の中腹にあった天台宗の 冠峰山三嶽寺の寺領でした。その名残か、今も水田の字名に三滝田、聖堂、九品田(くぼんでん)、 油田、鐘突田の呼び名が残っています。三嶽寺へ年貢米を納めるのに、村の西はずれの嶽道を通り、 菰野富士北側の参道入口の鳥居の下で、山寺の僧兵に引き渡したといわれ、 今もそこを鳥居口といい、道案内の石仏が残っています。
 また享保九年(1724)音羽村が天領から郡山領に替わった後の宝暦四年(1754)千草村、 潤田村から竹谷の入会と用水権のことで争論が起こり、 地元で解決できず江戸まで行って公裁を受けています。
 時代は移り大正になって、千種村は竹谷の下の「池の沢」の水田を短冊形に耕地整理する計画を立て、 大正七年(1918)四月に工事が完成しました。6.9ヘクタールの美田が生まれた三重郡下で 最初の土地改良事業でした。



凱旋門と竹谷川

 時は少しさかのぼり日露戦争のころ旧千種村の東外れ(潤田の集落の東)で、 竹谷川右岸の道路に石造りの凱旋(がいせん)門が建てられました。お国のために勇んで出征する兵士をここで見送り、 また軍務を解かれて無事に帰って来た人、そして無言で白木の箱に入って帰る人を、 涙で迎えるのもこの門でした。
 以前はこの潤田のはずれから、竹谷川に沿い赤水
(あこず)までの堤防に、 見事な桜並木が続いていました。これは明治二十五年(1892)ころ、 鵜川原村重盛信近村長の提唱で植えられたものでした。


凱旋門と竹谷川
潤田の東にある凱旋門と竹谷川。
右端にある石柱が、県道を挟んで両側に建っています。