菰野の川 D
海 蔵 川

椋ノ木橋から上流を見たところ
椋ノ木橋から上流を見たところ
 海蔵川は菰野平野の中央部を流れ、流路の延長は一九、四一二bです。その源は大字千草にある、千種城跡の下あたりが起点となっています。それから岡集落へ入り、池底の椋ノ木橋から川の相を見せ、大強原から鵜川原小学校の裏を東へ流れて、川北から四日市市域の上海老へ流下します。そして赤坂で支流の竹谷川を受けて、小杉の中倉橋東で部田川を合流して水量を増し、阿倉川から浜町を経て伊勢湾へと注いでいます。
 菰野町域を流れる河川は、大小十を数え、その名は主に水源の地名をとっていますが、海蔵川の場合はそれと異なり、河口の海蔵の地名がとられています。
 海蔵とは、往古伊勢湾の魚や貝を漁夫や海女が漁りした、海産物を納める海蔵が浜辺にあって、その海蔵があくらになり、阿倉、安久良、飽倉の文字を当て、そこへ流れ入る川も海蔵川と呼ばれていました。海蔵川の上流の千草、鵜川原あたりでは、河原須磨川とも呼んでいました。それは朝明川の水源に須磨山(羽鳥峯あたり)があること、その朝明川が度々の洪水で蛇行して流れ、奥郷浦で白砂が堆積して川床を高め、その氾濫水が堤防を破り海蔵川へ流入していたときがあったことによるようです。
 江戸初期の慶安三年(一六五○)庚寅には「寅の洪水」といい、朝明川が奥郷浦で決壊して池底村を襲い、村は流れて椋ノ木橋東の元屋敷から、北方の高みへ村移りをしています。そして海蔵川沿いの村々が一面の川原となって大強原郷が鵜川原村に名を改めたという話も伝わっています。
 そのあと天明二年(一七八二)にも海蔵川が大洪水で流域末の阿倉川村をはじめ羽津、生桑村あたりが大被害を受けて、この時阿倉川村の庄屋惣兵衛が、関係十三カ村を代表して幕府の代官所へ復旧の嘆願を申し出ています。それには上流の朝明川の堤防を、より堅固に改修して、海蔵川へ切れ込まないようにしてほしいと願っています。
鵜川原地区を流れる海蔵川。正面に見えるのは鵜川原小学校。
鵜川原地区を流れる海蔵川。
正面に見えるのは鵜川原小学校。
 先程の江戸初期にさかのぼり、慶安二年(一六四九)に池底村庄屋が書いた「海蔵川用水井堰大絵図」によると、海蔵川流域の千草、池底、潤田、大強原、川北の水田を灌漑する取水井堰は全部で六三カ所が描かれています。
 この井堰は、川幅一杯に松丸太を横に伏せ、その上に粗朶を並べ敷き、さらにその上に松丸太を重しに置いて杭を打ち、土俵を並べ水をせき止めたもので、取水樋管に水を導き各水田へ配水していました。
 殊に菰野藩のお納戸といわれた潤田、池底、大強原の水田は、地味肥え良質米を産出する良田でした。海蔵川はこの水田を潤し、お米を産み出す母なる川でした。


海蔵川