菰野の川 H
田 光 川

多比鹿神社の前を流れる田光川。
春には桜が見事に咲き誇ります。

多比鹿神社の前を流れる田光川
 田光川は釈迦岳の東面する大谷、小谷と八風街道に沿う渓流を集め、 切畑の友谷川を受けて田光集落の東で田口川と合い、小島集落の南、 永井の西の三角州で朝明川本流へ合流する、流路4875メートルの朝明川水系の一河川です。
 この田光の名は、奈良時代の「和名抄」の記録の中に「朝明郡田光郷」の名が見られ、 また、延喜式内社の多比鹿神社もあります。現在の菰野町で、 千二百年前の国の記録の中に固有の郷名が挙げられているのは、この田光だけです。
 田光郷は田光川の水利を利用して、早くから稲作が始まりました。 村名の田光も朝明川、田光川の伏流水が田光野の東端の三角州で自然に湧出して、 その低湿地が日の光でピカッと光っているところから、田が光っている、 それが広い田光野の現象であるので「田光」の村名になったのだと思われます。 今は耕地の基盤整備が行われて、灌漑と排水が分割され、伏流水の湧出も解消しています。
 古い歴史の遺跡は、集落の中心を流れる田光川の北岸に、千年前の田光郷の総社、 国土開発神の多比理伎志摩流美神を祭る多比鹿神社があり、その上の丘陵に中世城館の田光城があります。 城跡には石塁、土塁の跡、そして狼煙台や古井戸も残り、南側は切り立った絶壁で、 その下を流れる田光川が堀の役目を果たし、天然の要害です。
 また上流の切畑には、式内社伎留太神社が鎮座、珍しい農耕神の刈田媛命を祭神としています。 神社の上の台地には、切畑城の跡が残っています。八風街道が伊勢と近江の産物の交易路として盛んなころは、 田光城も切畑城も街道に柵を設け「峠越え通行警護」を口実に、関銭を徴収していたようです。
 この街道筋には、切畑の上に長者の館があって、そこに仕える下女「お菊の悲恋物語」が語り継がれており、 中の鳥居の上あたりには伊左、嘉助らの若者が江州の奉公先から元服式に帰る途中、 大雪のために遭難死した供養碑も残ります。峠近くには滝があり、その流れが田光川の源流になっていて、 右手の急な滝ヶ坂を登りつめた大石の陰には「坂中の地蔵」があります。
 峠の頂上には「八風大明神」の碑が立ち、ここに昔は八風神明社の祠があって、 祭神に伊勢津彦を祀っていました。有名な「伊勢風土記」に謳う「八風を巻き起こしわれは東国へ去る」 の一言を残して伊勢国を譲り、天竜川沿いに信濃の国へ落ちていった、その伊勢津彦の旧跡です。
 田光川の水源地は、花崗岩帯の真っ白な砂礫層を潜り、漉されて流れてくるので、 その水質は清冽でそのことを詠んだ歌があります。  


 里人が馬洗ふにはおしきまで
  流るる水の清くもあるかな      森たね

 この歌は、大正十五年(1926)新年歌会始めに見事入選の栄を受けたもので、 作者の森たねは、田光生まれの歌人でした。

右岸側に建つ森たねの歌碑
 
右岸側に建つ森たねの歌碑
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