菰野の川 I
田 口 川

 西行法師の庵跡を案内する石柱
石柱
 田口川は福王山(591メートル)の東面の小谷と麓の流水を集めて、その流路は3660メートル、田光川の一支流です。  田口地区は、菰野町の中心から北西にあり、昔の方角では「乾」に当たる大切な所でした。ここに北方世界を鎮護するといわれる毘沙門天を祀る福王神社があります。福王山の北側は、旧朝明郡と員弁郡との郡界で、田口村と宇賀村の村界でもあり、この境界線上に黒松が植えられ、その松が村境の標木となっていました。
 旧巡見街道の西行橋は、郡界に最も近い田口村の北端の橋でした。橋の北側に瓦を焼く窯もありました。巡見街道の上には西行溜という用水の溜池があり、その上には歌聖西行法師の庵跡という遺跡もあります。



 集落西の田口川。正面に見えるのは宮川調整池の堤。
集落西の田口川  そして巡見街道の辻の大鳥居から西へ、福王神社の旧参道が延び、参道に沿い宮川が流れていました。宮川周辺の地質は、第三紀の泥岩から成る湿田で、腰までずり込む深田で「ドブ」の地名がつけられていました。有名な民俗学者の柳田国男は、明治三十年にこの田口のドブの地名を探し当て、地名学研究の一地点に挙げています。このドブも宮川も参道も、昭和五十三年に着工した三重用水宮川調整池の池底に、今はすっぽりと沈んでいます。実はドブのあった泥岩地質が、ダムの貯水と漏水の防止には大いに利点となっています。
 この田口には、穂積神社が集落内にあり、祭神は天饒速日命を祀り、朝明郡内の延喜式内社の一社といわれていましたが、神社の合祀令により穂積社が福王山へ移されたので、朝明川下流の広永にある同名の穂積社の方が今は知られているようです。

唐土石にある五輪塔
五輪塔  
 一方古い寺院の跡は、集落の東側の水田の中に、誓安寺という寺跡に礎石が数基残り、その南側にヒル塚とよぶ古塚もありました。また、集落の南側の切畑道沿いの「仏谷」という所に、上下の区画の中に鎌倉期と思える五輪塔石が七基ほど残されています。
 また集落から国道306号や水田を隔てた東側に「唐土石」とよぶ所があり、ここから用水工事の際、大きな古い五輪塔石が二基出土しており、南北朝時代の藤原藤房卿の墓と伝えられています。
 近世の寺院は集落の中心にあって、真宗本願寺派の善教寺は寛文九年(1669)法潤の開基と伝えられています。法潤は長島の一向一揆に参戦した武士で、戦の後田口に移り寺を開いたもので、江戸期は石槫村の南山照光寺の末寺でした。
 福王山は、千段杉、太子杉などの千年の樹齢の古杉が天を突き、その歴史を物語っています。福王山は聖徳太子の創建を伝えますが、峠の向こう、近江の百済寺とその創建説を同じくする圏内にあります。

集落内を流れる田口川
集落内を流れる田口川  
 中世の城館「田光城」から、一本の間道が田口へ通じ、兵糧の搬入路となっていました。昔は切畑道とこの間道の出合いに水車小屋があって、田口川の流れが水車を回してお米を搗き、粉を挽いていました。古い歴史も生活文化も、田口川が養い育ててきたものといえるでしょう。

 今回で「菰野の川」シリーズは終了させていただきます。

   
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