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ふるさとの山 3

雲母峰

 

山の写真

 雲母(きらら)峰は、鎌ヶ岳の「前立ち」のような位置にあり、鎌ヶ岳に比べて円い穏やかな山容で、標高は(875m)です。その名の由来は、水沢の方に面した谷から黒雲母を産したことによると思われます。
 同名の山は高知県に吉良(きらら)ヶ峰があって、ここには石灰岩の採掘鉱山があり、近くでは比叡山の京都側の音羽川の上流の谷を雲母坂とよんでいます。ここは白雲母がきらきら輝くことから、この名がついたといわれています。
 雲母峰の地質は古生代層からなっていて主に砂岩、チャート、輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかい)、石灰岩などが見られ、鎌ヶ岳に近い地帯は、火山活動のマグマの貫入により、接触部は高熱によって変成作用を受けた変成岩帯が見られます。また南の金谷方面には石灰岩の露頭があって、そこから採石した石灰を、窯を築いて肥料用の消石灰を生産していました。
 また黒雲母の鉱床は雲母峰と鎌ヶ岳をつなぐ尾根の南側、水沢に面したところに鉱口が見られ、少量の黒雲母を採鈩していたようです。
 雲母峰は、江戸時代以前から東面した「平(たいら)」を萱(かや)山に定められて、頂上から「青木平」を西菰野村、中の「次郎ヶ平」を中菰野村、下の「太郎ヶ平」を東菰野村と、三ヵ村に分割して、それぞれ萓を生やし、夏から秋にかけてそれを刈り、大束に結い「萓床場」まで、木馬に乗せて運び出しました。床場からは、牛の背に大鞍をつけ、その左右に萱束を縛りつけて家まで運び、乾燥して納屋に入れ、屋根の葺草に用いました。萱一束(いっそく)はお城へ持って行くと米五合がもらえました。
 萱山の南の瀬戸谷から南の狸穴(たぬきあな)、堂ヶ平までは薪炭林となっていました。南堂ヶ平から水沢村の背界(せざかい)は、尾根の道筋にアブラチヤンが、早春に黄色の花芽をつけて、群立ってあたりに香りを漂わすので「油木原」の名がついています。
 雲母峰の頂上近くを「見付」といい、ここからの眺望はすぐれ、秋の澄んだ日には遠く富士山を眺めることが出来ます。見付あたりは背文の短い根笹がいっぱい繁茂していて、そのまわりは馬酔木(あしび)の老木が姿を丸くして点々と生え、その下は青い苔の庭、自然が歳月をかけて作った見事な庭園です。
 瀬戸川を越えた南が大笹(おおざさ)、あいた倉、その南にある「熊ヶ倉」という野は、お殿さま専用の狩場でした。また春の彼岸前には、菰野藩では毎年軍事訓練を兼て、「巻狩り」が盛大に行われました。それには菰野領下十六ヶ村の、百姓の青壮年者が勢子(せこ)に狩り出されて、北の三滝川川原から横に一列に並んで声高に「出よ、出よ」と叫んで猪、鹿、兎を追い出して、金渓川あたりで藩士も勢子も手をたずさえて獲物を生け捕りにしました。お殿さまも狩装束で、「床几本(しょうぎもと)」とよぶ所に陣営を設け、軍旗を高く掲げて巻狩りの指揮を取りました。その床几本は今も地名に残っています。
 明治になって萱山は廃止となり先覚者の、辻好穎(よしひで)、薮下五郎、久留美庄太郎らが率先して檜(ひのき)を植林し、それが立派に生育して美林と成り、戦後の町の復興に大きな助けとなりました。

役場南側から見た雲母峰
役場南側から見た雲母峰。右肩に見えるのが鎌ヶ岳。
地図