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御在所山

 

山の写真

 朝夕、眺め仰ぎみる御在所山は、南に鎌ヶ岳、北に国見岳を従え、実に堂々たる山容です。この名は明治24年(1891)国の陸地測量部が「二万分の一」に測図して地図を発行しました。これが今の国土地理院の地図の前身にあたる最初の地図で、山脈の主峰は「山」を使うとのことから、「御在所山」と表示されました。普段は「御在所岳」とよく呼ばれ、標高は1,212メートル程です。
 御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川のほとりへお遷(うつ)しするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮(とんぐう)を設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。昔からこの山は、麓の里人にあがめられ、日照りのときは山頂の「竜神池」(長者池)に祈願する雨乞信仰がありました。なお木曽の御岳にはじまる「山岳信仰」の修行場として、その先達の導きで「嶽(だけ)のぼり」をする信仰も盛んで、一の谷の上の表道(おもてみち)沿いに、御岳行者の記念碑が残されています。
また御在所山と同名の山は全国に七つほどあります。
 この山の地史は、古生代に堆積した秩父古生層を、中世代に突き破って火山活動が起き、古瀬戸内海時代を経て東海湖の時代があり、新生代の第四期に激しい傾き、隆起、沈降の運動(傾動地塊運動)が起り、近江、伊勢側の断層にはさまれて隆起したものといわれています。御在所山の山頂が南北に広く平らなことは、隆起前の平原の様子をとどめています。
また御在所山には、オバレ岩、大黒岩や藤内壁の絶壁などの奇岩怪石がありますが、これらは花崗岩で火山活動と隆起、傾斜のあとを、風化とともに語っています。
 この山の植物相は、中腹の湯の山温泉から100メートル登るごとに樹木は色合いを変えます。 春は美しい花を咲かすツツジ科のシロヤシオ、アカヤシオが、秋は紅葉が全山を彩ります。 安政4年(1857)に名古屋の植物学者伊藤圭介が植物採集して、その草木は360種あまりあると調査報告をしています。 江戸時代から「菰野山は、多種多様の植物の豊庫」といわれ、本草学者の探求の的になっていました。  また動物相は、国の特別天然記念物であるニホンカモシカをはじめ、鳥は留鳥が60種、渡鳥が80余種を数えます。 淡水魚は三滝川の本流にアマゴ、ハヤなどがすみ、昔は毎年6月16日にアマゴを捕り、 薫製にして伊勢神宮へ献納する「御幣(おんべ)」の行事が続けられていました。
 何と言っても御在所山は、その懐に湯の山温泉を抱いていること。この温泉は中世に開発されて、湯治場として慢性病の治療に役立ち、食料持参の逗留者で賑わったときがありました。それが衰微しているのを再開発したのが菰野藩主の雄豊(かつとよ)で、湯宿を増設して、道路、橋を整備し、道筋の桜、楓を保護したので、温泉の効能と渓谷美に誘われて伊勢、美濃、尾張の文人も競って来湯したといわれています。なかでも天野信景(さだかげ)、堀田方臼、横井也有などが、その紀行文を書いて公にしたので、菰野温泉の名で名古屋方面に知られて、来遊者で大いに賑いを見せました。その後もこの山は文学者の心を引きつけ、津藩校の督学津坂東陽、美濃笠松の詩人伊藤冠峰、そして近くは作家の志賀直哉、俳人山口誓子、歌人の鈴木小舟(菰野町出身の宮邸歌人)も訪れ、
 世の中の春にはあそびあきにけり  いざ鴬と山こもりせむ
と詠っています。
 御在所山は昭和34年にロープウエイが開通して、現在の観光地として脚光をあびました。 その後この山の一帯は貴重な自然の宝庫として、昭和43年に鈴鹿国定公園の指定を受けています。

南の方から見た御在所山
南の方から見た御在所山。頂上付近が奥に深く平らなことがわかります。
地図