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ふるさとの山 6

菰野富士

 

山の写真

 御在所山を父なる山とすると、その裾(すそ)に行儀よく居住いを正しているのが菰野富士、短い笹山の時代は、美しい姿を見せていましたが、今は樹木が茂り髭(ひげ)ぼうぼうのような姿です。標高は369メートルで、昔は千草村の方では笠立(さんがたち)、菰野村の方では三郷立(さんごうたち)と呼んでいました。菰野富士と呼ぶのは陸軍の演習場に指定されてからのことです。  
  菰野富士の地形、地質は古生層で、その直下に一志断層が南北に走り、そのために国見岳から東へ延びる尾根筋の東端が、包丁で切った様に急な斜面となり、富士山そっくりの姿となっています。その裾野に広がる高原は江野扇状地で、三滝川と鳥井戸川が長い年月をかけ、開析(かいせき)と堆積を繰り返してつくりあげた典型的な扇状地です。  
  原始時代の縄文期は、この菰野富士が冷たい風を防ぐ屏風の役を果たし、裾野に広がる高原は三方が見開きで日当たりはよく、西江野には三カ所の清水の湧き出る泉があって、その付近に住居を設けていました。また菰野富士の裏側の山地には、コナラ、ミズナラ、クヌギ、クリなど果実のなる樹林が多く、それに鹿、ウサギなどの動物もすみ、弓矢などで狩りも出来る、縄文人が生活出来る絶好の場であったようで、昭和四十四年には西江野で石器、土器が発見されています。  
  菰野富士の北側、鳥井戸川沿いに一本の登山道が開かれていました。それは国見岳の直下にあった天台宗の冠峰山三岳寺への表参道で、道の各所に石像の野仏があって道しるべとなっていました。  
  また一方、江野の南側は丘陸地と三滝川との間に断崖があり、その下に菰野村の江田神社がありました。毎年六月十六日に前を流れる三滝川で天魚(あまご)をとり、伊勢神宮へ献納する「御幣(おんべ)」の風習が、明治の末ごろまで続いていました。  
  裾野の江野は黒ぼくの土壌で、そこに生える草は馬や牛がよろこんで食べる秣(まぐさ)場になっていました。また芝を剥(は)ぎ田畑へ客土にすることもありました。  
  そして菰野富士の南側の栃谷(とちたに)が湯の山への登り口で(「山口(やまぐち)」といいました)、茶屋も二軒ほどあって菰野から登って来た旅人は藤棚の下でお茶を飲み、一息ついて三滝川に架かる一の橋を渡って、南側の山の腰を巻いて三の瀬へ出る、これが昔の湯の山道でした。  
  毎年春になると菰野富士の下に広がる江野にわらび、ぜんまい、松露(しょうろ)がたくさん出て、またげんのしようこなどの薬草も生え、そこへ矮性(わいせい)の山つつじが一面に真赤な花をつけました。宝暦四年(1754)に湯の山へ来遊した尾張の俳人横井也有は、この美しい花の野を絵野とよんだらどうだろうと、紀行文に記しています。  
  日露戦争のあと明治四十三年(1910)に名古屋の陸軍第三師団の野戦の演習場の指定を受け、千草に一個大隊収容の廠舎(しょうしゃ)も建築されて、昭和二十年の終戦まで、軍靴の音の絶え間ない場となっていました。

菰野富士 地図