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ふるさとの山 10

尾高山

 

山の写真


 背後の主峰、釈迦岳から続く支脈の遂きるところの独立峰であるところから、尾高山の名でよばれています。同名の山は長野県下伊那郡大鹿村と上村との境にあります。当町の尾高山はその麓に広がる「尾高高原」の名で東海地方に知られています。
 西にそびえ立つ釈迦岳(1092メートル)を本尊と見なすならば、その前に行儀よく居住まいを正す尾高山(533メートル)は、御前立といえる位置にあります。古くから、この尾高山を「おだかさん」の呼称で呼ぶ信仰の山、北の福王山が杉の杜(もり)の中に、「毘沙門天」を祀(まつ)り、こちら南の尾高山は、檜の杜に「千手観音」を安置しています。
 尾高山の縁起では「釈迦岳の中腹、頭巾掛けという所に観音像をまつり」と唱えています。尾高の観音堂には、古い文献資料は残っていませんが、熊野の那智大社の応永十二年(1405)室町時代前期の文書の中に、「伊勢国椙谷寺の先達の大輔阿闍梨云々」とあり、椙谷寺の名で挙げられています。
 この杉谷地内の南山に、平安後期から鎌倉、室町期の「中世墓地」があり、昭和三十八年発掘調査が行われました。墓地から五輪塔が、その下から遺骨を納めた蔵骨器が多数出土して、遺跡の上部丘陵からは火葬穴も数基発見されました。この杉谷中世墓は、先般、東大の石井進先生が実地に見学、東海地方きっての重要遺跡と折紙をつけられました。

尾高山を登る途中にある東屋
檜に囲まれた尾高観音の参道
          尾高山を登る途中にある東屋    檜に囲まれた尾高観音の参道
 この杉谷遺跡の北側の観音谷に今も礎石が残っている寺跡があり、その谷の入り口に熊野神社があって、那智の熊野信仰の関係をうかがうことができます。
 室町期には観音寺、引接寺などの天台宗の寺院があって、伊勢観音33番の25番札所が尾高の引接寺、26番が杉谷の観音寺で、24番の垂坂の観音寺から上(のぼ)って来る巡礼で賑わったときがありました。
 永禄十一年(1568)信長の第2回の伊勢進攻により、天台の観音寺、引接寺もその兵火で焼失。江戸期は杉谷集落内に観音寺を、尾高の引接寺の跡に八角堂の観音堂を建て、再興しました。
 杉谷には、集落の西側の丘陵の末端に、杉谷城とよぶ中世城館跡が残っています。中世には寺院二ヶ寺、そしてさきほどの中世墓から出土した古瀬戸、古常滑の陶器の納骨器は、当時としては高価な貴重品、杉谷城主や杉谷の寺院の僧の墓碑とすれば、余程の財力があり栄えたときがあったと思われます。
 なお尾高高原一帯は縄文人の格好の住居地で、尾高山一帯は、ナラ、クヌギ、クリの自然林と、猪、鹿の絶好の狩猟場。根の平開拓地から縄文石器、土器が出土しています。そして円墳の群集墳が、尾高高原内に十六基ほど残されています。
 釈迦岳と尾高山の入会権は、杉谷をはじめ榊(馬場、中脇)、竹成村の共有で、中世は一郷村としての共同体であったようで、江戸期は桑名藩、忍(おし)藩の領下でした。
尾高山