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ふるさとの山 13

福王山

 

山の写真


  福王山は標高591メートル、釈迦ヶ岳の前方に位置する残存地形で、花崗岩と泥岩の接点に一志断層が南北に走り、麓は福王扇状地で、南の根の平扇状地に連なっています。頭の丸い山容は田光川と田口川が浸食した跡の老年の姿です。
  そして福王山の麓の梅ヶ丘に、歌聖西行法師庵跡があって、そこに
  柴の庵よるよる梅のにほひ来て
  やさしきかたもあるすまい哉
の歌碑が残されています。法師の歌集「山家集」には「伊勢にしふく山と申す所に侍(はべ)りけるに」とあって、これは庵から西に見える山を「西ふく山」とよび、庵の辺りに梅を植えてその花の香りを嘆賞しておられたようです。 
  なお伝教大師が延暦年中、京都の北方に自刻の毘沙門天を安置して、京の都を守る鎮護の神とされたことをならい、江戸期になって桑名藩主松平定綱公は、桑名城府の鎮護として領内の福王山へ、城下の吉津屋町の辻にあった毘沙門堂を移されたともいわれています。
  また福王山一帯を桑名藩の藩有林として保護され、山内の小室坂に山番所を設け、田口村の庄屋鈴木氏が山代官として管理の役についていました。寛永十二年(1635)のころ、定綱公は山麓の高原一帯をお狩場に定め、早春に鹿狩りを行い、田光に在住の辻忠兵衛が藩主の荒馬二頭と狩犬二匹を預り、お狩場役を命じられ、巻狩りの勢子(せこ)役(獣を追い立てる人)は、田口、田光の村人が努めました。
  福王山の杉は、船の御用材として木挽(こびき)が引き割り、長い材を板車に載せて桑名港まで運び出されました。 福王山一帯の広大な山林原野は、二三五町歩ほどあって、炭を焼き、薪や柴を採る入会(いりあい)山として利用されていました。 明治になって藩有林は国有林となり、入会権のある、田口、田口新田、大井田、門前、南金井、梅戸の六大字は、実地に測量し面積を確認して、明治四〇年にこれを記念して福王神社の二の鳥居の北側に碑を建てました。碑文は、そのときの農商務大臣清浦圭吾が綴っています。
 田口は古い村で、中世は伊勢神宮の神領地で「田口御厨」(みくり)といわれ、その氏神は穂積神社で、 祭神は天火明鐃速日命(あまのほあけにぎはやひのみこと)を祀(まつ)っていましたが、大正六年(1917)社殿を福王山内へ移して北に穂積社、 南に毘沙門天をまつり、合わせて福王神社と称しています。 田口地区内の古い寺院は、堂垣内、三百坊、石仏谷などの地名が残り、五輪塔、 塔婆型石仏が残されています。このことから天台系の古い寺院のあったことがうかがえます。 長島の一向一揆の後、熊野修験者の別当法潤が田口へ来て旧蹟を慕い、真宗本願寺派の善教寺を興しています。
  また江戸期は、福王山の名を取って在村の草相撲の力士の称号に福王山と名乗らせ、小島と田光に、 その碑が残っています。そして福王山には毘沙門天のお使いという天狗が住み、 高い杉の天辺(てっぺん)から四方を見下ろしていると、村の悪童たちに恐れられていました。 田口は山に入り炭を焼き、木を伐採し、それを挽(ひ)く仕事を業とする杣人(そまびと)の多い村でした。 近年には福王神社の谷から流れ出る宮川をせき止めて、三重用水の宮川調整池が新しく完成し、 朝上地区の潅がい用水の心配がなくなりました。


地図
三池岳、八風峠、中峠、釈迦ヶ岳

右手の蒼く丸く見えのが福王山。左の肩に先月紹介した三池岳が、そのさらに左には釈迦ヶ岳が見えます。