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菰野の暮し今昔

竹成五百羅漢の藤まつり藤の花のイラスト

 竹成の五百羅漢境内で、毎年五月五日の「こどもの日」の前後に藤まつりが行われています。ちょうど八十八夜のあとですので、お茶の若葉を摘み今年はじめての農産品、新茶をまずは大日堂の大日如来二尊と五百の羅漢に献茶して、今年の農作物の豊作をお祈りします。  
  献茶と祈念の法会が行われたあとは、場を藤棚の下へ移して、毛せんに腰をおろす参詣者に、新茶の振る舞いがあります。見事に垂れた花房が、五月の風にゆれるのを仰いで頂くお茶の味は格別で、自然と心が豊かになっていきます。  
  藤は花も優しく奇麗ですが、その長く伸びる「つる」は綱、縄の代わりにたいへん役立ちました。昔は牛が農耕や運搬などで人の仕事を助けてくれましたが、重い土を起す時の引き綱は、藤つるがロープの代りに用いられました。またつるの皮を水に浸して、その繊維から藤布を織り、これが丈夫な作業着になりました。また、山で薪
(まき)や柴(しば)を結(ゆ)うのに、現地にある藤のつるを縄の代わりに用いました。藤原岳や町内では杉谷の焼合川の上流に、藤原谷と呼ぶ薪炭材の豊富な山がありますが、これは藤がたくさんあることに由来するものです。そして古代の豪族、貴族である藤原氏も、その出自の所は、大和国高市郡藤原の里で、藤の茂る山里といわれて、藤原の流れを汲むその家紋に「上り藤」「下り藤」の紋章を家紋としています。また田口の梅ヶ丘に庵を結ばれた西行法師は、藤の花に心をよせて  
  西を待つ心の藤をかけてこそ  
  そのむらさきの雲をおもはめ  西行の歌を残されています。  
  さて、この竹成の名物の藤は、五百羅漢を建立された照空上人ゆかりの藤です。上人は竹成の在家に生まれ、期するところあって出家して、大和の生駒山の宝山寺で得度修行し、その後吉野の大峯山寺で修験の難行を積みました。その後文化五年(1808)鈴鹿郡の野登山の頂上にある、鶏足山野登寺の住職に招請されました。海抜851メートルの頂上にある野登寺は、杉の巨木、ブナの大樹が茂る山寺です。創建は醍醐天皇の命で、延喜十年(910)に僧仙朝が開いたという古刹
(こさつ)です。  
  照空上人は天保五年(1834)に野登山を降り、菰野領下の森村(今の「神森」の一部)にある賀保寺が、信長の兵火に遭い焼失して衰微していたので、その再興の依頼を受けて住職となりました。このころ賀保寺境内に藤を植え、藤棚をつくりました。その藤の咲くころは、寺の南を通る四日市街道からも眺められ、花の盛りは四日市あたりからも花見の客で賑わい、藤棚が寺の復興に力を貸したといわれています。  
 こうして賀保寺の復興を見届けた照空上人は、生まれた竹成に戻り大日如来を安置する松樹院の住職となりました。上人には野登山の下の坂本で五百羅漢を作りたいとの願いがあった様ですが、種々の事情があって出来ずにいました。その終世の願いである五百羅漢建立を、竹成の村人も協力して嘉永五年(1852)に着工し、慶応二年(1866)にその制作を終えました。この藤も森村の賀保寺から一株移し植えたものと伝えられています。

昨年の献茶式と藤棚のようす
昨年の献茶式と藤棚のようす

献茶式



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