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菰野の暮し今昔

茶屋の上の不動まつりあじさいのイラスト

 茶屋の上では毎年、六月二十八日に不動まつりが行われています。その不動堂は、近鉄湯の山温泉駅西南の蛇不老(じゃぶろう)山の中腹、字「杉ヶ床」にあります。  
  茶屋の上は、寛文十年(1670)菰野藩の新田開発事業によって、新しく開発された集落で、村興しのはじまったころから、村人の心のより所として行われて来た伝統行事です。
  この不動まつりを催すのに二人の年番役が決められていて、行事の一切のことをつかさどります。まず年番の家では不動尊にお供えする餅一臼と黒豆のお強飯
(こわ)三升が作られます。祭りの二十八日の朝六時に、太鼓の合図で会所の前に人々が集り、餅とお強飯のお櫃(ひつ)を風呂敷に包んで手分して持ち、太鼓を先頭に行列を組み、婦人、子どもも加わります。  
  行列の露払い役の男たちは、手に鎌を持ち、道端に生い茂る夏草を刈り払いながら登ります。
  堂の前の石段は掃き清められて、人が揃うと湯の山三岳寺の住職によって読経が始まります。儀式が終ると、お供えのお餅とお強飯が、参拝者に分けあたえられます。この黒豆のお強飯を頂くと、夏病
(なつや)みしないといわれました。
  この不動堂の本尊は、青石に刻まれた不動明王で、昔は雲母峰の中腹の打尾、または石壁とも呼ぶ急な岩盤の上に祀
(まつ)られていました。ここは道も険しく、ことに梅雨の季節は、蛭(ひる)や蝮(まむし)もいて大変な所でした。そこで相談の上、昭和四十二年に東海自然歩道に近い現在の場所へ移されてきました。  
 この不動まつりの年番には、真黒に煤
(すす)けた帳箱と、不動明王の画像と太鼓が、大切な引継物として申し送られています。古い帳箱の中には、茶屋の上新田の開発以来の古文書が納められていて、宝永五年(1708)「子歳新田帳」天保六年(1835)「茶屋の上新田竹年貢帳」嘉永四年(1851)「滝谷不動年番覚帳」などが残されています。
 なお天保十三年のころの「年番覚帳」には、祭りの入用として、もち米一斗五升、小豆二升、酒三升、黒砂糖少々と書かれています。昔はお餅やお強飯をたくさん作り、これが一番のご馳走で、田植えも無事終わった野上り休みとして、この不動まつりを何より楽しみ、よろこびの日であったことが伺えます。
 茶屋の上の不動まつりをはじめとして、湯の山の「蒼滝不動」、西菰野では「金谷
(かんだに)不動」、中菰野の「宗利(そうり)不動」が同じ六月二十八日に行われており、これらの不動まつりについては、延享二年(1745)の菰野藩の寺社奉行の「書上帳」にも記述を見ることができます。
 このように不動まつりは、江戸初期から菰野谷と千種谷で続いている年中行事で、その起源は、村々の水源地である滝や谷に石不動を祀り、いのちの元の清浄水を授けていただく、祈願と感謝の念を現すものです。それは遠い昔、鎌ヶ岳、御在所岳、国見岳を三岳と崇め、国見岳の山腹に冠峰山三岳寺を創建して、水の神、仏として不動尊をおまつりしたことに始まります。不動尊は、大日如来が、一切の悪業、煩悩を降伏させるために化身して、右手に降魔の剣を、そして左手にはそれを縛る羂索
(けんさく)を持ち、そばには矜羯(こんから)羅、制吨迦(せいだか)の二童子が仕えています。

昨年の茶屋の上の不動まつりの様子
昨年行われた茶屋の上の不動まつりの様子。左手に不動明王の画像、その前にはお強飯をいれたお櫃、右手に太鼓があり、読経の際にも使われます。

滝谷不動
茶屋の上の不動まつりが行われる「滝谷不動」



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