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菰野の暮し今昔


山の神シクラメンのイラスト

 山の神は春の彼岸を境に山から降り、里の神また田の神として村を守り、お米の取り入れが終わった12月7日を「山の神」といい、村中が集まり春から秋まで田圃の稲作を守ってくれたお礼と感謝の祭りを行いました。この祭りを境に山の神はまた山へ戻って、こんどは山を守ってもらうのだといわれていました。またこの日が過ぎると山の口が開いたといい、杣人(そまびと) をはじめ炭焼人も一斉に山へ入り山仕事に精を出しました。  
 村では、10戸から20戸位を単位とする山の神請が結ばれていて、7日の山の神の日は、山の神の宿と呼ばれる年番の家に、朝から年寄りから子どもまで村中全部が集まり、年寄り、子どもと婦人を家中開けて、出居から上へあげて、男衆は土間に降ります。お餅をつくための蒸籠
(せいろ)と釜を窯に掛けて火を焚く人、餅つき臼や杵を出して用意をする人、また年寄り用に菜餅、雑煮餅、きな粉餅、あんころ餅の支度をする人など、すべて村の男達が準備します。そうこうしている中に蒸籠の蒸しが上がって餅つきがはじまり、力自慢の若衆が杵を振り上げて元気よく交代でつきます。お餅が出来ると大きな半切へ放り出して、待ちかねている年寄りや子供たちの注文を聞いて婦人達が手伝って木皿やお椀に盛って食べさせます。この餅がお昼のご馳走になり、これからお餅の取りあいがはじまります。    
 年番は、この餅食い争動の隙に、鏡餅五つと神酒一升を下げて山神の森へ走り村を代表してお礼を申し述べます。帰って皆と一緒につきたてのお餅をいただきます。  
 午後は年寄りを囲んで、山の神まつりのいわれ、昔話に花を咲かせます。子どもたちは、栗や柿などの山の幸をおやつとして食べます。台所、土間の男衆は餅つきの道具を片づけて、今度は夕飯の支度を始めます。軒先に竹垣で囲った鶏屋の中から、丸々太った鶏を選び、それを料理したものが今日の山神さんへの犠
(いけにえ) です。鶏のほか人参、ごぼう、ねぎなどの野菜類を煮こみます。一方大釜にお米を炊いて、これが炊き上がる頃合に具を入れて炊き込みます。この味ご飯が、晩ご飯のご馳走です。
 この山の神のお祭りの餅と味ご飯のご馳走作りは、この日ばかりは男衆が全部奉仕して、婦人達は「包丁休み」といい、上の台所に座って男衆の料理作りの高見の見物です。これは山の神は女神で、今日一日だけ婦人は「かみさん」扱いであり、夫が妻を「かみさん」というのは、この山の神の習わしに起因します。  
こうして村中が全部寄り集って食事を共にするのは、男も女も、老いも若きも心を一つにして村を守っていく大きな方便でありました。  
そして山の神を祀る所は、村の近くに山の神の森があってその中心に古木の大木が残されていて、その木が山の神が宿るといわれていました。それが江戸の中期頃に野面石、川原石の表に山の神と刻み、この石が山の神であるとする風瀬が生まれました。石の豊富な千草や奥郷では、大きな石を立て、そのほかの村でも平たい川原石を選んでいます。なかでも音羽の山神は合祀令により八幡神社跡に集められましたが、その中の音羽の山神の碑に青石の川原石で、享保年の刻銘の印されているものがあります。こうして森の中の古木の「木霊
(こだま)」から石にと移されていったものと思われます。

音羽の八幡神社跡にある山神の碑
音羽の八幡神社跡にある山神の碑


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