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菰野の街道今昔さくらイラスト

四日市道 

 菰野から四日市へ向かう道を四日市道といい、四日市から菰野へ向かう場合、菰野道と呼んでいました。今回はその道をたどってみます。  
 その四日市道の起点は菰野城の東大木戸の辻が始まりです。いまの重盛書店の西が高札場で、そこに代官所があり、その東側の現在重盛書店のある所は、人、荷物を運ぶための馬と人を扱う問屋がありました。問屋は、この辻から湯の山へ登る旅客には、駕や馬を斡旋し、四日市、桑名方面へ行く人には、馬を進めていました。また問屋は、飛脚という手紙や貨物の送達の取扱いもしていました。  
 ここから東へ城下町の商店が、道の両側に続いていました。旅館をはじめ、呉服、味噌醤油、酒などの食料品から、桶屋、竹屋、車、鍛治屋など、菰野の城下町へ行けば、なんでもあるとのことで、近くに住む村人の買物客で大賑わいでした。この東町商店街の東外れから松並木が二百メートル余ほど続いていました。この松並木は菰野の象徴で、四日市から上って来た旅人は、東海道筋の松並木よりも立派な松にびっくりして、思わず着物の埃を払い襟を正し、この並木の奥にお城があることを知ったといいます。そしてお殿さんの参勤交代の時は、この並木の下で行列の威儀を正し、お帰りのときは領民が大勢出てここでお迎えしました。この並木の終わる所で南の亀山から来る巡見街道を受けていました。  
 四日市道は、宿野をあとに神森へと東へ来て金渓川を三重橋で渡ります。一色から桜町の真ん中を東へ智積の西勝寺、椿岸神社から南へ出て矢合川を渡り、南側の堤防を下ると、智積村のはずれに一本松が残されていました。三滝川支流の矢合川の合流点で川島村へ入ります。ここに水車を原動力にした川島紡績がありました。川島からは三滝川の清流を左に見ながら大井出まではまっすぐな一本道を東へ下がります。大井手まで下ると三滝川から取水する井堰と尾平へ渡る橋がありました。伊倉、久保田からは、菰野道の左手堤防上には黒松が多く生えていました。四日市西町の入口には椋の木があって、その下に一膳飯屋が店を出していました。西町の坂を下った所に地蔵堂があって、菰野へ行く人、東海道、参宮街道への旅の安全を守っていました。  
 大正元年(1912)四日市駅から、菰野、湯の山まで軽便鉄道が開通するまでは、菰野から四日市までの馬車が鈴を鳴らして走っていましたが、それも鉄道に乗客を奪われて、蹄、鈴の音も消えてしまいました。昔の四日市道は山の炭、薪、柴、そして石工の作る石臼が荷運で四日市へ運ばれ、帰りは塩、魚、日用雑貨が荷物となって、街道を行き来していました。  
 昭和になり、道を通る主役が人や馬に代わり自動車になると、道幅も広がり、道路は舗装されて立派な道になり、度々改修も行われました。 平成五年(1993)には国道477号の指定を受けました。現在、国道477号は四日市市を起点に菰野町を通り、鈴鹿スカイラインを経由して滋賀県日野、近江八幡、琵琶湖を横断し、京都府を抜けて大阪府池田市を終点とする重要道に発展しました。

巡見街道の道標
四日市道の起点には巡見街道の道標が立ち、重要な交差点であったことを今に伝えています。

  前号までの「菰野の暮し今昔」で菰野の年中行事を紹介してきましたが、今回からは菰野を通る道とその当時の沿道の様子を紹介して行きます。  
  執筆は引き続き、郷土史家の佐々木一さんにお願いしています。


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