広報こものトップ>> 菰野の街道今昔
菰野の街道今昔藤イラスト

武平峠

 御在所岳と鎌ヶ岳の鞍部(高さ880m)を武平峠と呼んでいます。峠の名の由来は、確かなことはわかりませんが、菰野に土方公の城下町ができたころ、近江の日野の豪商日野屋五兵衛が菰野東町に資本を投じて酒造りのほか、食品日用雑貨を商う店を設けました。本店のある日野と菰野の往来が多くなり、峠の近江側に小さな茶店を設けて、一服の場としました。この茶店を近江蒲生郡高木村出身の久田武平が譲り受けたので、「武平峠」と名がついたようです。そして江戸後期の天明四年(1784)十一月に菰野の湯の山総代と東町の問屋と西菰野村、中菰野村、東菰野村の庄屋の連名で「江州大川原越道の開発願書」を作り、菰野藩の代官に願い出ました。その理由に元文元年(1736)のころ、大河原村(現在の滋賀県甲賀市土山町大河原)と湯の山で相談の上「商人往来道として牛馬の通行出来る様に、道の補修に勤めて来たが深山難所につき、歩行背負ばかりのことで難渋致し候。近頃は魚肥の干鰯高値に付、日野商人の扱いによれば安値、それに諸品交易にも便利になり申候」と訴えています。
 湯の山から武平峠まで三キロ、峠から大河原まで八キロの道程です。鈴鹿スカイラインが開通する前は歩いて峠を超えて往来しました。水沢峠からの出合いまでが難路で、野洲川へ降りたり登ったりの繰返しです。途中に念仏禿
(ねんぶつはげ)という急な崖もあって、難路を身をもって実感したものでした。この水沢峠からの出合いには橋が架かり、田中林業の山小屋が建っていて、野洲川もこの出合いからの狭い流れが緩やかになります。道も野洲川の川岸に沿って歩きやすくなります。しばらく行くとダムの砂止め堰(せき)があり、道は野洲川の左岸へ移ると、大河原の若宮神社に到着します。宮の向かいに浄土宗の善法院があります。  
 大河原で道を右に取れば平子、蔵王、音羽の集落を経て日野町へ入ります。また道を左へ取れば土山町の鮎河、黒川を経て東海道の猪鼻へ出て京へ向う大街道となります。この先草津へ出ると部田
(へた)、羽栗(はぐり)、上笠(かみかさ)、南笠(みなみさか)の四カ村は菰野藩の分領地でした。武平峠から日野までの道筋は大河原越えと呼んでいました。
 話しは菰野城下へ戻って、四日市、また桑名から湯の山へ来遊する旅人や近江商人をはじめ、菰野城の藩主もお忍びで登られた湯の山道の昔のようすを紹介します。  
  まず出発点は、広幡神社の庄部旅所の交差点です。桑名方面から下村や吉沢を通ってきた来た人や四日市から三滝川に沿い上って来た人々も、この庄部の交差する場所で一緒になります。足が弱い人は山駕籠
(かご)や馬の背を頼み、健脚の人は自分で歩くので、うどんや餅で腹ごしらえをした後に杖を持ち出発します。川原町の如来寺の白土塀を右に見て西へ歩き、柳林から大羽根あたりで三滝川を歩いて渡りします。そこから江野の秣場(まぐさば)を通り、菰野富士の南の栃谷で三滝川を一の橋で渡り、大谷の腰を西へ登り、三の瀬の茶店の前を通ります。さらに二の橋を渡り、急な坂をあえぎ登り、三の橋を渡ると温泉口で、ここから石段を登れば温泉街はもうすぐです。橋の近くで右へ進むと裏道で、温泉街を避け大石橋を渡って武平峠へと続きます。木こりや大きな荷物のある商人は、この小道を通って大河原へ向いました。

四日市西高校の山路先生と山岳部の生徒
昭和59年に四日市西高校の山路先生と山岳部の生徒が武平峠に標柱を建立しました。



All Rights Reserved.Copyright(c) Komono Town
各ページの記事、画像等の無断転載を禁じます。