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菰野の街道今昔あじさいイラスト

千草道

 千草道は千草集落の中心にある常夜燈籠を基点として、東は潤田の凱旋門から竹谷川に沿い下り、赤水、御館から坂部、生桑を通り、川原町で東海道に出ました。四日市の市場から海産物が魚屋によって運ばれる道でした。そして千草の燈籠から西へは、朝明渓谷へ入り、千草峠を越える峠越えの道でした。  
  今回は、千草街道と呼ばれ戦国の武将も密かに往来し、近江商人や伊勢商人が盛んに交易路として利用したこの街道について紹介します。
  日本の国の真ん中にある近江国は、中心に琵琶湖を抱え、この湖を利用して湖東の平野は、稲作が早くから行われ条理制が進められました。敦賀、小浜の港へも近いので、銅器、鉄器、陶器の文化を携えた大陸からの渡来人が多く湖東に住み、村づくりをはじめました。この近江は古くから東海道、東山道、北陸道の三道が四方に貫通し、それから枝分かれしていたのが千草街道でした。この道を平安京の公家、武家、僧、芸能人、商人が東へ行く近道として通った街道でありました。
  鎌倉時代の文応元年(1260)に近江蒲生郡の保内商人が伊勢商人と商取引を巡り争った文書が今掘神社(滋賀県東近江市)に残っています。伊勢との商取引では塩が第一番で、千草街道に塩津の地名が今もあります。
 また室町中期の寛正六年(1465)に蓮如上人が叡山の僧徒に本願寺を攻められて、日野城主蒲生氏を頼って避難してきました。上人は甲津畑(現在の滋賀県東近江市甲津畑町)の黒川頓入という杣人
(そまびと)の案内で千草峠へ向かわれ、その炭焼き小屋で一晩泊まり、千草から長島の願正寺へ、そして三河の教化に向かわれたという話が伝わっています。
 戦国の武将織田信長は、近江の浅井、越前の朝倉氏を攻めて近江国を手中に収めんと深追いしましたが、京都に入ると退路を断たれたことに気づき、密かに間道の千草越えの道を取ることにしました。峠の手前の藤切川の中州の岩にかくれた善住坊という鉄砲打ちの名人に狙われましたが、運よく小袖のすそをかすめただけで無事に岐阜城へ逃げ帰ることができました。信長の峠越えに手を貸した甲津畑城の城主速見勘六左衛門は信長を歓待しました。そのとき信長の馬をつないだ駒つなぎの松が、今も青々とその速見家の庭に残っています。
  近江商人と伊勢商人が隊商を組み、千草街道を頻繁に通行するので、千種城主は街道の入り口に新関を設けその通行を警固の名目で関銭を徴収し、片や近江側の甲津畑城の速見氏も城下に柵を設けて取り締まりを行っていたようです。
  千草峠往来の商品は
伊勢側から
  塩、和紙、伊勢木綿、若め、荒め、魚の類、瀬戸物、海苔、干物
近江側から   
  苧麻
(からむし)、油草、日野の薬、塗り椀、木炭、ロクロ引き木製品、近江茶
  和紙は美濃から長良川を船で桑名へ送り、桑名から馬や牛の背で運ばれて主に京都へ送られました。
  千草峠を越えた甲津畑には旅人を泊める宿もあり杉峠下の塩津にも宿がありました。杉峠の手前には御池鉱山跡があり、盛んなときはここから銅や鉄が産出し、分校もあって運動会は千種小学校へ来たこともありました。杉峠からはブナの並木が続き、千年も人の足で踏み締められた道は舗装路を歩くより快適で気持ちのよいものです。

千草道の基点となる千草の常夜灯籠
千草道の基点となる千草の常夜灯籠



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