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菰野の街道今昔ひまわりイラスト

大矢知道

 菰野東町から福村、吉沢、下村、川北を通り四日市市の大矢知へ向かう道を大矢知道と呼んでいました。現在の県道菰野東員線と県道平津菰野線はおおよそ大矢知道をたどっています。今回はその大矢知道をご紹介します。 

「右四日市道 左大矢知道」と書かれた道しるべ。
「右四日市道 左大矢知道」と書かれた道しるべ。現在の国道477号と県道菰野東員線の交差点に立っていました。手前から奥へ福村の集落へ入っていきます。
昭和48年10月撮影

 菰野東町のはずれ、昔の松並木のはじまりに一本の道しるべが立ち、右に取れば「四日市道」左に取れば「大矢知道」の起点です。現在はその分岐点に大きな常夜燈籠があります。道しるべに従い東に下れば福村の集落を通り、川に架かる高木橋を渡り北に進むと吉沢橋に出ます。
 明治二十年に三重郡役所は、この大矢知道が菰野と富田、桑名を結ぶ重要道路として、三滝川を渡るため吉沢橋を架橋しました。それまでは、ここに橋を架けることは禁じられていて、川原を歩いて渡るための徒渉点があるだけでした。このあたりは三滝川の上流から流れてきた砂が堆積するので、集落は三滝川より低く、吉沢は堤防を内と外に二重に築き洪水の被害から村を守りました。吉沢橋の堤防の高いのは洪水への備えのためでした。   
 吉沢橋を渡り坂を下ると、左手に法林寺の本堂が見え、さらにしばらく進むと右手に源正寺本堂の裏へ出ます。ここから黒田道を分岐して、あやめ塚の碑の前を通り四日市の黒田に向かいます。   
 吉沢集落を抜けると竹谷川の桜堤へでます。ここには明治二十二年ごろに鵜川原村村長の重盛信近氏が提唱して潤田から北野境まで桜を植え、見事な桜並木が続いていました。竹谷川から一面の広い田圃が続き大矢知道は下村へ入ります。下村は西念寺、大円寺、盛願寺、禅林寺と寺が4カ寺もあります。昔はここが交通の要所で、街道沿いに店舗が並び旅館も二軒あり、桑名から菰野、湯の山への来遊者は下村の茶店で昼食を取り一服する中継地でありました。
 街道は禅林寺の境内の西側を通り海蔵川を渡り川北の集落の東のはずれで右に折れて東に下ります。ここから菰野地を離れて四日市市域へ入り、広い開拓地であった大沢です。さらに東へ下ると山城に入り、信明寺の前にある三岐鉄道の踏切を越えると、ここからは朝明川の右岸に沿い、真っ直ぐに東へ下る一本道です。   
 間もなく右手の小高い丘陵の突端に萱生城址が見えます。中世城館の跡で、今は暁高校の白い校舎が建っています。このあたり現在は新しく住宅団地が造成されています。さらに進み東名阪自動車道の高架をくぐると平津です。昔は菰野から平津まで、水車を使って米をひくために必要な磨き砂を買いに来たものでした。   
 平津から道は朝明川を離れて東へ直進して大矢知へ入ると大矢知の興譲小学校に着きます。話は江戸期に戻りますが、文政六年(1823)に桑名の藩主松平忠堯公は武蔵国の忍城へ転封の命が出ましたが、引き続き伊勢の国四万三千石の所領の村七十二カ村を治めるため、代官所が大矢知に置かれました。ここには代官の役宅から陣屋、そして勤める武士の居宅など、そして年貢米を収納する米倉が幾棟も建ち並び、にわかに員弁郡、朝明郡、三重郡の中心的な位置となりました。その忠堯公は文を尊ぶ藩主であったので、忍藩の進修館の分館とも言える藩学校の興譲館を大矢知陣屋に興しました。世情の騒然のときこそ青年の教育が大切と明治三年(1870)十一月に開校になりました。この興譲館へは忍藩領の朝上、竹永、千種地区から、この大矢知道また八風道を利用して歩いて通ったものです。



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