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菰野の街道今昔ウメイラスト

巡見街道

田口を通る巡見街道
田口を通る巡見街道。真っ直ぐ進むと石榑、阿下喜へ、左へ進むと福王神社です。

 先月の巡礼道は庶民のささやかな信仰の道ですが、この巡見街道は幕府の将軍の代理で各藩の政情を観察する巡見使が通る官道でした。はじめは江戸将軍の世代交代の際に巡見使が派遣される慣わしでしたが、次第に定期的にとなったようです。巡見使の一行の陣容は正使一名副使二名で、二千石の旗本が命じられ、その下に警固の武士二十名、馬が三十頭、人足百名ほどの数にのぼりました。
 伊勢の国への巡察は、まず桑名城下から始まり、四日市、鈴鹿、津、松阪、伊勢へと浜通りを巡り、伊勢からは松阪や津の山間部の村々を巡りました。津からは亀山を経て、伊舟、菰野、石榑、治田、阿下喜、山口と順路が定められていました。今もその道筋は、巡見街道という名で呼ばれています。この巡見街道は、菰野町内では国道306号線の旧道が、おおむねそのルートにあたります。
 巡見使が派遣されるときは、様々な準備がなされました。まず事前に藩から、村々の庄屋宛に通行の順路、宿泊の場所、食事、休憩、接待道路の整備などの用件を通達しました。それにより、村の庄屋は村絵図を描き、着出帳には村高、戸数、人口、河川、用水、林野、牛馬の頭数、神社、寺院、名所旧跡など、村勢の詳細を書き出しました。そして巡見街道筋の家々では障子を張り替えたり、垣根を直したりし、また藩では現在の四日市と宿野の境に大小の便所や手洗場を設けて準備を行いました。
 巡見使派遣の際の記録は、菰野藩では享保二年、天明八年、天保九年のものが残っています。天明八年(1788)の記録では、藩の郡奉行ら三名が一行を水沢村の内部川まで出迎え、そこから先導して桜から宿野を経由して、菰野城下へ入りました。そして人馬の陣容を整え、金渓川を渡り城下の並木通りで馬から降ります。藩が東町のはずれの並木に用意した御馳走場では、芝生の上へ三人の巡見使が床机に腰をおろすと、その前へ藩主の代わりに家老が出て丁重に「ご遠路誠にご苦労の御事」と挨拶を述べました。家老は一行を宿舎となる明福寺、西覚寺、瑞龍寺へ案内しました。また夜は宿の明福寺へ藩の重臣が挨拶をして藩政、民情などを報告した様です。城下町の東町の商店街ではお供の武士、足軽馬方の人らに草鞋や手ぬぐい、煙草、せんべい、餅、うどんなどを用意していました。御馳走場は、食べものを出して接客する場でなく、単なる挨拶を述べる儀式の場をにわかに設けたものです。一行の泊まる、布団、足洗い桶、たらいなどは、領下の村から割り当てして借り、湯の山の旅館からも提供を受けていました。
 翌朝の巡検使一行は午前六時に出発し、菰野藩の郡奉行を先頭に、駕籠に乗った巡見使、馬に乗ったお供の武士、荷物を乗せた馬が後に続きました、三滝川を渡り、潤田と音羽境まで見送り、長島領音羽村に引継ぎます。
 巡見使が通る巡見街道は、音羽から桑名領の千草村の三嶽寺前を通り、朝明川を渡り杉谷、田光、田口村へと続きます。巡見使はさらに石榑、阿下喜へと進み、山口の善長寺で一泊して、時、多良から関ヶ原を経て、中山道を通り江戸へ帰りました。



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