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菰野藩学校

 菰野藩の三代藩主雄豊(かつとよ)は、藩の学問向上のために、藩士の宇佐美直介を江戸の昌平坂学門所へ遊学させました。直介はそこで儒学を学び、菰野へ戻ると、藩主の命によって藩士の子弟の教育に当たりました。その後、五代雄房はその門弟の竜崎致斎(りゅうざきちさい)に命じて家塾を開かせ、藩士の子弟のほか領内の農家商人の子も入塾させました。その中から南川金渓(きんけい)、小沢坦軒(たんけん)、小沢襲美(しゅうび)、久保幸助らの秀才が生まれました。藩はさらに学問をより高めるため、京都へ送り出し儒学、医学を学ばせました。菰野藩は、大きな藩のような財力はありませんでしたが、早くから学問を重視したの村づくりに努めました。
 江戸後期の文化、文政のころになると、近隣の長島藩が藩校文礼館を、亀山藩は明倫社、桑名藩は立教館を、神戸藩も教倫堂を創設しました。菰野藩でも南川金渓の長男、蒋山(しょうざん)(文蔵)が長島藩の学者十時梅崖(とときばいがい)について学びました。蒋山が菰野に帰るのを待って、九代藩主義苗(よしたね)は文政三年(1820)に城内の南木戸近くに麗沢館(れいたくかん)という文学講堂を建て、その塾頭に南川蒋山を命じて文学教育に当らせました。 
 義苗の五十三年間の良き治世を継いだ十代雄興(かつおき)は、文学愛好の志を抱く藩主であり、就任第一の仕事が正式の藩学校の建設で、天保七年(1836)に新設されました。藩学校の名は修文館(しゅうぶんかん)といい、場所は麗沢館の北西で藩主の邸宅でもある陣屋の長屋門の南側に位置し、建坪五十坪の文学講堂を中心に、その西側に竪馬場と弓の的場、藩主の観覧場なども併設されていました。修文館は文武の練成を兼ねたもので、一万石の小藩には充分すぎる施設でした。
 この藩校修文館の督学(校長)は蒋山の子の南川定軒が命ぜられました。定軒が制定した「修文館学規」の決まりは次のようでした。
修文館学規
 「それ風俗を正し、士気を振興するは、文武両道の外に出るものでなく、文武は即ち、仁義なり、仁義の一を欠けば規則もためならず文を以て武を救け、武をもって文を行うにある。いまここに天保七年の八月、藩主深く士気の衰微するを憂い、管内の士民を問わず、文武に練達の士を養成し登用する。これによって藩を興し、大いに奮発心を喚起する。専ら真正の教育を行い、士の士たる道を了知させ、赤心報国の士を養成するためなり。他日国家の大用に供せんことを思い、夙夜その業を勤め勉励すること大切なれ。(以下省略)」
教課及び教科書
 儒学四書、五経、朱子小学、孝経、史記、歴史鋼鑑、前後漢書、三国志、国史略、十八史略、元明史略、蒙求、文選、資治通鑑、文章軌範、世説、唐詩選、春秋左氏伝
授業時間表
 午前の八時より十時、
 午後二時より五時まで。
輪講
 毎月六日、午後二時より六時まで
休業
 正月元日、七日正月(一月七日)、ひなまつり(三月三日)、端午の節句(五月五日)、七夕(七月七日)重陽、(九月九日)、藩祖の命日(六月二十八日)
書道
 幕府指定の栗田御家流を習字
藩主の試
文武両道とも藩主の在国の時、春秋二回学習振りをご覧になる。
藩校の祭儀
文学講堂に儒学三聖老子、孔子、顔回の画像を祀り 釈奠(せきてん)の祭儀を毎年正月二日に行う。


◎前号までの「菰野の街道今昔」では菰野の道とその当時の様子を紹介してきましたが、今回からは菰野の学校の歴史やそこにまつわる出来事を、過去から現在まで時間を追って紹介して行きます。
執筆は引き続き、郷土史家の佐々木一さんにお願いしています。



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