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菰野の産業今昔

1 稲作

◎前号までの「菰野の伝統食」では菰野に伝わる食事を、それに関係する行事などと一緒に紹介してきました。今回からは菰野の様々な産業の昔と今を紹介します。執筆は引き続き、郷土史家の佐々木一さんにお願いしています。

第1回目の今回は稲作です。

稲作

日本に稲作文化が伝わったのは、縄文時代の末期から弥生時代といわれています。菰野町でも古くから盛んに行われ、現在もほ場整備が行われた大きな田で米作りが行われています。

品種改良で優良品種が誕生
日本へ伝来してから、四季の移り変わりのある日本の風土に合う稲の品種が改良、工夫されました。全国の農村各地に、稲の育種改良研究家がいて、理想の品種を探し求めていました。健全な苗を作って田へ植え、その中から優れた穂を探し出して再び田へ植える、という作業を数年にわたり繰り返します。優良品種が固定して誕生するまでは、気長に根気よく作りあげます。

関取米の記念碑
関取米の記念碑

現在の菰野町には江戸末期から明治初期かけて、中菰野に佐々木惣吉、竹成に松岡直右衛門と二人の稲の育種研究家がいました。

関取米の佐々木惣吉
佐々木惣吉は寛政12年(1800)に中菰野村に生まれました。当時、中菰野村付近の水田は、用水が不足してたびたび干害を受け、また秋は早くに冷えることから、土地に適合した中稲(なかて)系統の優良種の出現が望まれていました。惣吉は子の喜兵衛と共に親子力を合わせて品種の改良に努力し、嘉永元年(1848)に「関取」が誕生しました。関取米の特性は、茎が短く倒れにくく、多くの穂が出て、それに美味しいというものでした。関東では握り寿司用の米として、大好評となりました。

竹成米広益碑
竹成米公益碑(公益とは社会一般に利益を与えるという意味です)

竹成米の松岡直右衛門
天保7年(1836)生まれの松岡直右衛門は、関取米の誕生を知り、自身も竹成の風土に合う稲を作り出したいと念願していました。明治7年(1874)に変種3本を見つけ、栽培した結果を踏まえ、3年後の明治10年に「竹成」と名付けて種子を配り始めました。村人は、直右衛門の名に因み「直(なお)」とか、倒伏するくらいによくできると、一反に十俵の収穫があるほどであるということから「倒十(こけじゅう)」の名で呼んでいました。竹成米も茎が短くて倒れにくく、さらに収量が多いという特徴がありました。

全国に広まった菰野の米
関取米と竹成米は全国各地で栽培され、明治末期にはそれぞれが全国で五指に入るほど普及していました。しかし、更なる品種改良によって、より優秀な米ができると、次第に生産量が減ってきました。しかし、菰野の米の血統は現在の米にも受け継がれています。



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