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町長雑感

湯の山温泉と東海道
           −官民連携と道路整備−

 前回は、開湯1,300年を迎えようとしている湯の山温泉の歴史を振り返り、2つの危機的状況を取り上げました。現在まで湯の山温泉がその歴史を紡いで来ていることは、幾多の危機を乗り越えて来たということですので、今回は、史実が残っている範囲ではありますが、江戸中期の湯の山温泉の復興について論じてみたいと思います。

 室町時代末期からの戦乱の世も徳川幕府によって治められ、安定した社会が到来した頃、菰野藩の3代目藩主雄豊は、1686年に幕府に対して戦国時代に荒れ果てた湯の山温泉の復興を願い出て、老中の許しを得ることが出来ました。と同時に、湯の山在住の壺屋権七という人物が中心となり、温泉復興を企図して、協力者を募り、湯宿の敷地割りなどを行って、1687年4月に8軒の湯宿が完成しました。温泉地を復活させるために幕府に御伺いを立てなければならないことは、当時の徳川家の統治力の大きさを物語っていますが、誤解を恐れずに現代風に言い換えれば、このことは、地元の地域活性化のために官(=菰野藩)が許認可を求め、志ある民(=壷屋権七ら)が一大プロジェクトを企画し、実行したととらえることが出来ます。この結果、57年後の1744年には、2階や3階を含む8軒の宿屋と酒屋や土産物屋、うどん屋などの9軒の商家などがひしめく活気に満ちた温泉街となり、見事な復興を遂げました。

 ここで、歴史ある地域資源の湯の山温泉を巡るこの復興の背景には、東海道の整備があったことを忘れてはなりません。東海道の歴史も古くその起源は8世紀頃とも言われており、たまたま湯の山温泉の歴史とも同じくしています。その東海道は、江戸時代に入り「五街道整備」により関所や宿場町、一里塚などが設けられ、往来する人にとって充実した道となりました。それと合わせて、東海道の宿場町である四日市からの菰野街道も整備され、湯の山温泉へのアクセスが飛躍的に便利になりました。

 このようにして、地元の官民連携と道路整備が実を結び、江戸中期頃までの湯の山温泉は隆盛を極めますが、前回触れたように、天明の大飢饉と寛政の改革という恐慌と緊縮財政によって、再び危機的状況に陥ります。次回はそこからの復興について論じてみたいと思います。

江戸時代の湯の山温泉図
江戸時代の湯の山温泉図

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