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町長雑感

菰野町における保育園の起源

−教育や福祉の機関としてのお寺−

 菰野町において正式に保育園(注1)が設置されたのはいつ頃だと思いますか?

 昭和25年4月に菰野保育園(定員70名)が開設されたのがその始まりです。ちなみに、各地区の保育園は、昭和27年1月に千種保育園(定員60名)、昭和32年11月に朝上保育園(定員60名)、昭和35年1月に竹永保育園(定員30名)、昭和37年4月に鵜川原保育園(定員60名)とおよそ10年ちょっとかけて町内一円に開設されていきました。

 『町史』には、菰野保育園の設立経緯が詳しく記されているので、ここで紹介します。菰野保育園の起源は、正式に開設された昭和25年からおよそ10年前の昭和16年に遡ります。その頃は、昭和12年に開戦した日中戦争以後の戦時体制により、農村における労働者不足が生じ、加えて食糧増産も企てられていました。菰野町においても、5〜6月の田植え、10〜11月の稲刈りなどの農作業の繁忙期に女性の労働力が欠かせないものとなり、日中に子どもを預かる場所が必要となりました。そこで、医師をしていた福村義治の要請を受けた菰野町長である黒沢隆吉が、菰野の明福寺の加藤守住職に相談し、季節託児所を開きました。当時、明福寺は、日曜学校を実施するなどして子どもたちが集う場所でもあったことから、ある程度環境が整っていたと言えますが、3〜6歳の子どもを受け入れることは並大抵のことではなかったと想像します。地域の人々にとっても、町行政にとっても、まさに「駆け込み寺」であったということでしょうか。

 その後、終戦とともに、この季節託児所は閉鎖されますが、昭和24年9月に再び寺を開放して保育所を開いたところ、入所希望者が大勢押し寄せたため、公立保育園の開設を要望し、様々な関係者のご尽力により、正式な開設に至ります。

 以上のような経緯からすると、前々回の本稿で取り上げた学校の件でもそうですが、寺というものが、その宗教性を超えた形での教育や福祉の機関として、いかに地域と結びついていたのかを窺い知ることができます。そのことは、つまり、地域社会と家庭、子どもの関係がより濃密であったことを示唆していると思います。

(注1):正式な名称は保育所ですが、ここでは一般的に用いられている保育園を用います。


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