第14回
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炭やきの歴史
 
 
 

炭やき、すなわち木炭づくりの歴史は遠い昔の弥生時代後期ごろにはじまるといわれています。それは、中国、朝鮮半島から日本へ青銅器、鉄器の文化が伝来し、九州佐賀ではじめて銅ほこがつくられ、この銅ほこを作るための燃料に木炭が使われました。鉱石から銅、鉄などの含有金属を溶かして精製し、あるいはそれを加工するための溶解燃料に木炭は欠かせないものでした。奈良時代になって聖武天皇が東大寺の大仏鋳造のしたとき、大量の国産の銅と木炭が使われました。この量は1万6656石を要したと記録されています。平安時代に出雲地方の鉱山で砂鉄から鉄を精錬するのに原料の砂鉄3.5トンに対して木炭3.2トンを要したといいます。日本の木炭生産の歴史はこうした鋳造、あるいは鉱山業の発達と深い関係がありました。江戸時代に菰野町の田光で鋳物師が梵鐘づくりで大いに活躍したときがありました。これは付近の杉谷、切畑などの村で盛んに炭を焼いて、その燃料を提供したからです。そして桑名の鋳物業の発達も後背地の北伊勢の木炭が大いに寄与していました。宝永8年(1711)ごろ桑名領下の切畑、田光、杉谷村では炭がまの運上金(税金)を桑名藩へ上納しています。こうして鋳物や鍛冶に使われた木炭も明治になると、それに代わる石炭が燃料として盛んに用いられ、木炭はもっぱら家庭用の燃料として需要が高まってきました。また農家の製茶、養蚕にも使われ、炭やきに従事する人も多く山村の大切な副業となっていました。昭和8年ごろに家庭燃料として木炭、薪が占める割合が65%で残る35%がガス、石炭でした。同14年ごろから支那事変が起こり戦争のためガス、石炭が軍需用に向けられ木炭が極度に不足、政府は価格統制を行い増産をよびかけ、生産に拍車がかけられました。戦争が激しくなると自動車もガソリンに代わって木炭車が走りました。そして人手が足りなくなり木炭の生産も一時は減少しましたが、戦後の燃料不足で同27年頃に生産のピークを迎えました。そのため薪炭林が乱伐されて原木不足となり、それと、戦後の経済成長によって台所の燃料も電気とガスがその座を占め、昔からの薪や木炭は、ほとんど使われなくなりました。