第25回
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矢田百渓(やだひゃっけい) 日本画家
 

 百渓は本名を勝太郎、明治27年10月26日西菰野の矢田十右衛門の四男に生まれました。母きそは中菰野の関取米発見者佐々木惣吉の孫娘でした。百渓は、始め寺の小僧に入り仏門を志したが成らず、京都へのぼり、清水焼の上絵師になりました。幼いときから絵を描くことが巧で、天賦の優れた素質に恵まれていました。上絵描きでは飽き足らず、勧める人もあって京都画壇の重鎮田中悟堂の門に入り南画を学び、また水田竹甫(みずたちくほ)にもつき日本画の奥義を究めました。
 昭和9年帝展に赤目渓谷の作品が入選、以後各種展覧会に出品、入選の栄誉を得ました。晩年は京都の深草に住み、画室を五蕉庵(ごしょうあん)と称し、その一隅に竹の子が首をあげるということもあって生涯、風雅を愛する人でした。昭和34年9月10日65歳、京都で死没しました。

百渓の肖像百渓の肖像

 

花井探嶺(はないたんれい) 彫塑(ちょうそ)家
 

 探嶺は本名を芳五郎、明治12年2月28日西菰野の茶屋の上、坂倉房蔵、まつ夫妻の五男に生まれました。長兄鉄次郎が左官になっていたことから芳五郎も、その道に入り、郷里を出て愛知県で修行をつみました。のち知多郡亀崎村乙川の花井たねと結婚、花井姓を名乗りました。探嶺の技術は、特に漆喰塗りの細工に優れ、それに常滑で陶芸を学び、探嶺独自の作風を身につけていました。大正11年に文展出品を志し、近代的な感覚で「チカラ」と題する大作を手がけました。昭和8年名古屋市中村の白王寺の和尚に乞われて一丈八尺の大観音像を完成させ、探嶺の名を高めました。戦後故郷の茶屋の上に疎開し観音像二体を制作、その一体はいまも茶屋の上の共同墓地に残されています。昭和29年1月18日、名古屋市で死没75歳でした。

「チカラ」の塑像「チカラ」の塑像