第36回
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賀保寺(かほうじ)の歴史
 

中世 
 この寺の創建は平安後期の嘉宝年間(1094)といわれ、寺の北隣にあった春日神社と境内を同じくして、はじめは神仏混淆(しんぶつこんごう)で別当職が宮と寺の祭事、仏事を執り行っていました。室町前期のころは大いに栄えていたときがあり、その当時永享2年(1430)鋳造の鰐口(わにぐち)が一つ遺されており、この鰐口から推定するにかなり大きな仏堂が建っていたようです。そして鰐口には「伊勢国三重郡智積御厨内賀保寺」と刻まれていて、このころ智積郷(佐倉、桜一色、平尾、海老原、赤水、神田、森)の地域内に編入されていたことを知ることができます。智積には奈良時代に創建の智積寺がありましたが、賀保寺の鰐口が作られたころ戦乱のため滅亡しました。この賀保寺も信長の北勢攻めのとき焼き討ちにあい、その焼跡から鰐口は出てきたものと伝えられています。

賀保寺の山門
賀保寺の山門

近世
  江戸時代になって寛永11年(1634)森村土着の郷士南部新五左衛門が願主になって仏堂を再建しました。南部氏が尾張の熱田へ移ったあと一時衰微したが、正徳2年(1712)黄檗僧雪岑(せつしん)が来住して春日社を建立、つづいて賀保寺の中興開山といわれる泰寿和尚が迎えられ境内に心字池や庭園を設け、山内の整備充実に力を尽くしました。そのあと義道、義誉和尚らが在住し、天保のころ、竹成出身の神瑞(こんずい)(照空(しょうくう))和尚が鈴鹿の野登山を降り来住、山門、礼拝堂を再建し礼拝堂の天井に龍の彫物を大工絲兵衛に作らせています。神瑞和尚は白藤を愛好し境内に藤棚を設けて花の盛りは多くの参詣者で賑わいました。時は移り明治の廃寺令と神社合祀令により賀保寺、春日社も廃止となって、春日社の拝殿を移して本尊薬師如来ほか仏像を安置、現在に至っています。境内地には、明治に旧下海老原村庄屋の住宅を移築して説教場、公会所にあてました。神森区では小取替とよぶ年番が旧賀保寺の遺物の維持管理に携わっています。