郷土史・風俗第59回
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菰野の華道
 

城下町の生け花
 土方雄氏は慶長5年(1600)に菰野へ入り、町づくりを行いました。そして神社や寺院を建設し、文教と精神文化の高揚を図りました。
 また、藩士や庶民の子弟の中で志のある人々を京都へ上洛させて学ばせました。こうして都の文化を身につけた人々が帰郷すると、庶民の間にも茶道や華道などの都の文化が盛んになりました。
 中でもお城に近い明福寺の住職加藤兼清は、京都六角堂の池坊に入門して華道を学び、その奥義を習得して帰郷した後、檀家の子弟や城下町の人々に華道を教えました。ここから加藤健助、畑田久楽、土井華楽、藤井如月らが輩出され、それぞれ家塾を開いて生け花の指導を行いました。こうして庶民の人たちが身につける素養として生け花が一般に普及しました。

朝明の立花
 朝明川に沿う朝上や竹永あたりにおいても、江戸時代から生け花が村人の間で盛んに行われていました。
 そこで、永井村の庄屋藤波杢右衛門竹斎は京都の池坊専好に立花を学びました。その後、門下の高弟三人のうちに数えられるほどの優れた技量となり、池坊家元に代わり各地を巡歴し、華道の指導と普及に努めました。同じ門下である永井の田中倚水も師の竹斎の勧めもあって、京都の池坊に入門して本格的な華道を学びました。家元を援助して京都で門弟の教育に努め、九州から北海道まで巡歴して各地で華道の普及に尽くしました。晩年は永井に帰り、村の人々に池坊立花の手ほどきをして丁寧に教えました。
 現在でも朝上や竹永あたりで立花をはじめとする生け花が盛んであるのは、竹斎や倚水の流儀をくむ人々の活動と努力があるからです。

田中倚水の碑(永井地内)
▲田中倚水の碑(永井地内)