第255回

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関取米記念碑と田中芳男 文 郷土史家 佐々木 一
     関取米記念碑
 明治三十四年(1901)の四月に佐々木惣吉の「関取米記念碑」が、菰野商店街の東はずれ、並木の松の下に建立されました。ここは城下町の入口に当り、いわば菰野の一等地でありました。
 「関取米」は中菰野村の惣吉が嘉永元年(1848)に中生種の千本の稲穂の中から優れた一穂を発見、それを毎年試作をくりかえした。その稲は茎も丈夫で倒れにくく、質もよく、おいしい米のはしりでした。
 明治になると国も勧農局を設けて「農は国の本」といい、その生産増強に力を入れました。特に「農業技術の近代化」が叫ばれ、稲においても耐肥性、多収型、良質米という条件が要求されていました。「関取米」はこうした時代に即応したものを備えた、打ってつけの品種でした。
 こうして、東海から関東にはじまり、そして中国、四国、九州まで、その作付けは広がり、同四〇年には全国で第四位にランクづけられるほどの普及ぶりを見ました。ことに東京の「江戸前鮨」では、関取米の握りが江戸っ子に受けて、大好評を得ました。
 地元の菰野では、全国の農家から種籾の注文が殺到して大童、県の技術指導を受けて採種圃を増設、厳重な栽培管理を行い、その需要に応じていました。  折りから上京して福沢諭吉の慶応義塾で学び、帰郷した菰野の宇佐美祐次は、父の祐之と共に村の殖産振興の啓蒙に当っていました。まず農家の生産意欲の向上は、村自慢の篤農家佐々木惣吉の顕彰にあると考え、郡農会から県農会の賛同を得て碑の建立を企画しました。
 ときに郡農会々長であった祐次は、全国農会幹事長である田中芳男に懇請して碑の題字の揮毫を依頼しました。また碑文の撰は、国立農事試験場長澤野淳に委嘱しました。
 この田中芳男は、天保九年(1838)信州飯田に生れて、早くから博物学に興味をもち、十三歳の時、当時、名古屋で有名な本草学者伊藤圭介の門に入り、医術、蘭学、本草学を学びました。
 安政五年(1858)芳男二十一歳の時、師の圭介に従い、同門の人たちと揃い菰野へ来て、植物の宝庫御在所山などへ登山、十日ばかり湯の山に滞在して、植物採集を行っています。この採集行の様子は、画家が二枚の額に描写して現在菰野小学校に保存されています。そのご江戸へ出て幕府の物産調所に出仕して、諸物産の調査、研究に従事しました。
慶応二年(1866)にフランスで万国博が開催されると、物産を携えて渡仏、日本の紹介につとめました。また駒場の東大に農学部を新設、上野に博物館、動物園を設けるなど、地方にも物産館、博物館設置などの事業の指導に当りました。
 芳男は農学者として、専門の研究一途にとどまらず、その学識を活かして内務省、農商務省の高官を歴任して優れた業績をあげました。そして全国農会幹事長の要職についていました。菰野から碑の題字の執筆を引受けた際、かつて青年時代、植物採集に、その山野を渉猟した、なつかしい思い出の土地。しかも「関取米」の優性は農学者としてよく知り奨励して来たもの。題字も、心をこめて筆を揮われたとおもわれます。
 はからずも本年の九月から十月、出身地の長野県飯田市立美術博物館において「田中芳男展」が開催されます。その展示品に「菰野山採薬記」の肩額二面が貸し出され陳列されることになりました。ここに菰野と不思議の縁に結ばれていた田中芳男を紹介しました。