第256回

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南部新五左衛門  文 郷土史家 佐々木 一
     南部家が再興した賀保寺の山門
 神森の東の集落、森の村中に、「南部屋敷」と村人が呼ぶ、面積四反ほどの畑があります。昔は、この屋敷のまわりに高い土居が築かれていて西と北側には、椿やタモなどの風除け樹が屋敷森となっていました。土居の外側は濠の様に深い溝が切られ、南に出入りの門が構えられ石橋が架けられていました。まるで砦の様な屋敷構えでした。
 この南部屋敷の西隣りに、森村の氏神、春日神社があり、それより南は、賀保寺の境内へと続き、 いずれも、杉、桧など大木が鬱蒼と繁る杜となっていました。
 さて、この南部家ですが、その先祖は甲斐国の出で信州へ移り、また流れて伊勢国の朝明郡富田に城を構えていました。信長の北伊勢攻めで城は落ち、その後は織田家に従い、仕えていたようです。 天正十一年(1583)土方雄久が菰野城七千石を信雄から拝領したころ、同じ織田家に仕えることから南部新左衛門兼綱の代に、森村に来て、この地の豪士になったようであります。
 その兼綱も織田の南勢攻めのとき従軍して木造城の戦で亡くなり、その弟の新左衛門と、新五左衛門が森村に居住して、慶長五年(1600)に雄氏が菰野城へ入城してくると、雄氏に三百石取りの重臣格で仕えました。兄の新左衛門は、森に館を構え、村の鎮守の春日神社や賀保寺の再建普請にも村長として多くの寄進を行っています。
 弟の新五左衛門は、菰野藩の仕官を辞めて、尾張の熱田へ出ました。そのころ一族の南部安右衛門は、尾張藩に仕えて、熱田に居住しており、この人の招きで熱田へ移り、東海道は熱田宿の本陣を経営することになりました。
 菰野を出る因は、小藩に二人が仕えても将来を案ぜられ、世は新しい徳川幕府の時代になり、宮仕えより東海道で本陣を営み、参勤交代の大名と、上り下りの旅人を相手に本宿、新しい道を求めたのだとおもわれます。当時江戸へのコースは、桑名の住吉浦から舟に乗り海上、七里を渡舟で、熱田宮前で上陸し西国の諸大名は、熱田の本陣で宿泊することになっていました。菰野藩主も勿論、 ゆかりの南部本陣へ泊ることが決められていました。
 この本陣も元禄十五年(1702)ごろには七代目となり、旅館の建物も傷んで来て、特に尾張藩へ願い出て木曽の御用林の桧材を、お金にして百両ほどの払い下げを受け、その材で修復をしています。本陣の旅客は、参勤交代の大名、京からの公家、勅使などの王侯、貴族ばかり、その度に本陣の主は挨拶の口上を述べ相手をすることが定めとされていました。そこで格別の格式が求められ、また苗字帯刀が許されていました。
 南部本陣から所轄の熱田奉行所への届出、願書には、まずはじめに、「私共、先祖、新五左衛門は伊勢菰野土方丹後守様に仕える武士にて故ありて熱田に移り本陣職あい勤め候なり」と書き出しています。元は菰野出身ということが本陣の誇りのようでありました。
 この南部家の子孫は、熱田に健在で、その所蔵の文書は熱田宿の歴史を物語るものとして名古屋市文化財の指定を受け、その一部は「蓬左文庫」にも所蔵されています。
 森に居住の南部氏は、寛永十年(1633)ころの春日神社の棟札にはその名が記されています。 その後は、名主にもその名は見えず、医家としてつづきその最後は南部孝一が日露戦争に軍医とし従軍、帰還後は東京に移り病院を開業しています。