第257回

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お菊あらしのはなし  文 郷土史家 佐々木 一
八風峠のお菊の池
 天保十四年から嘉永六年までのこの十一年間は、田光、切畑村は天領の支配下におかれ、その代官所は滋賀県の信楽町にありました。なにか村に事が起きると、村の庄屋は峠を越えて信楽まで出向きました。
 時は、弘化二年の七月十九日のこと、八風峠を東から登って来た青年と少年の二人連れが、八風の明神に参詣のふりをして、風呂敷包みから皿を取り出し祠の近くに埋めた、これを峠の番所で見張っていた田光村の善七に見つかった。青年を掴まえて問いただすと「江州は日野」というだけで、はっきりしない、一緒について来た少年は「黄和田村の友治の伜です」というだけで一向に埒があかない。困った善七は相棒の友吉に番所をたのみ、この二人を連れて、少年の村である黄和田まで連れてゆくことにした。峠を下る途中で田光の背負い人夫の金七、弥藤治に出会った。善七は顔見知りの二人に訳を話し黄和田までの同道をたのんだ。
 黄和田の庄屋平介は、村の役人と少年の父の友治を呼び寄せると共に青年を問いただし「自分は江州下迫村与八の伜、文蔵であり上野田村の藤兵衛という者にたのまれて皿を埋めた」と白状させた。黄和田の庄屋はとにかく田光村の庄屋のもとで、この黒白の始末をつけてもらいたいということで、善七は、この犯人の文蔵を連れて田光村へ帰ることになった。この事件のことを知った田光村の庄屋諸岡武左衛門は隣村の切畑村に相談をかけ、番小屋仲間の黄和田、蓼畑、政所、杠葉尾にも使を出した。急ぎ鳩首対策の結果、とにかく信楽代官所へお伺いをたてることになった。文蔵の身柄は暫く田光に留め置くことにして、庄屋武左衛門は急遽、信楽へ出向きました。代官所において詮議の結果、内緒ですます訳にも参らず、天領の四日市代官所で、信楽代官直々のお取調べがあって、その結果、文蔵は、唐丸籠に乗せて江戸送りと決定した。それに庄屋の武左衛門と発見者の善七の二人も江戸表まで、同道することになりました。
 江戸では、文蔵に皿埋めのことを唆した筈の藤兵衛も呼ばれて勘定奉行の取調べを受けましたが藤兵衛は一向に知らぬ、存ぜぬの一点張りで取調べが進まず、そのうち、肝心の文蔵が牢屋で衰弱して亡くなった。この文蔵の牢死により訴訟は頓挫をきたし、こんどは反対に捕まえ、訴えを起した善七が責められる破目になった。裁く評定所の方も、黒幕の張本人の藤兵衛の出身の上野田村は尾張藩の所領であることから、一方が尾張さまならば、こちらは天下さまの直轄領ということで扱いに困り、田光側が折れて願い下げをすることになった。

 話かわって、この後、慶応二年八月七日、夕方から風雨激しくなり、特に峠の向こうの愛知川は大洪水となり、堤防の決壊も随所に起り愛知川筋の村々では大混乱となった。翌日の夜明けごろにやっと風雨がおさまったが愛知川宿の近辺では家が二十軒ほど潰れ、街道の松並木も七百本ほど倒れた。このときは近江をはじめ、伊勢、尾張、美濃も大きな被害を受けた。これで米の値段が一ぺんに高騰して一俵が四両と、ふだんの十倍の値上りとなった。八月十四日の夕暮れに、半鐘が鳴り人々のどよめきの声が聞こえる。何事が起きたかと出て見ると、米の高騰に端を発して宿場で一揆が起きたという。
 愛知川宿では、この騒動で米屋の菱屋と長五郎店が打ちこわしの災難を受けた、一揆は井伊藩から役人が出て取り鎮められた。そしてこの米騒動の発端は、米相場をつり上げるために人を使って八風峠のお菊の池に陶器を投げ入れさせた米問屋の仕業だともっぱらの世間の噂であった。
 このようにして峠のお菊の池と、陶器は「お菊あらし」の因になると信じられていました。