第259回

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近藤謙蔵  文 郷土史家 佐々木 一

 謙蔵は、慶応元年(1865)三月二十九日、菰野藩士、武脩の二男に生れました。 家は役場の西の五本松のあった処、藩主から拝領の屋敷で四百坪近くあります。 父の武脩は、神戸藩の学者小谷秋水の二男で近藤家を嗣ぎました。
 この近藤家の遠祖は又市了翁といい菰野藩の二世雄高の代に、鉄砲物頭として百石五人扶持で召抱えられました。 その父は雄久に仕え信長没後は浪人として、元和二年(1616)ごろ、尾張の刈谷城主水野隼人正忠清に仕えました。 水野氏が渥美の吉田城へ移封のあと父、又一が土方家に仕えていた縁で菰野へ移り、槍術、砲術の指南として仕えることになりました。
 この了翁のあと、心翁、即応、湛室、春山、大道、天真、活山、天山、又一郎と十代続き、代々又一、 又右衛門を名乗っていました。
 この謙蔵は八代目で、武士の家に生まれ、明治五年に藩士の早川忠恭、 忠訓父子について初歩の読み書きを習い同六年、 藩校の顕道館が菰野学校として創立されると第一期生として入学しました。 その間、夜は川原町の藤牧約の私塾へ通い漢文を学び、十五年に菰野学校の高等科を卒業しました。 当時の菰野学校は、上級学校へ進学するための予備校でもありました。 つづいて師範学校へ入学して同十九年に、めでたく師範を卒業して、直ぐ菰野小学校の教師に迎えられました。 校長は有名な河村忍で、英語教育をはじめた革新的な教育者でした。 当時、謙蔵は菰野学校に在職二十年目の同三十九年、特命で静岡県富士郡吉原小学校の校長に赴任、 ここは東海道吉原宿のあった処、賑やかな町、ここに在任中、富士登山、箱根を渉猟して見聞を広めました。 吉原に勤めること三年、同四十二年、こんどは県内の久居小学校の校長を命ぜられました。
 そうして同四十五年に故郷の菰野小学校の校長に帰ってきました。学校は現在の役場にあったのが城跡の現在地へ移り、 明治は終り大正となり、新しい学校教育が切望される矢先でもありました。
 謙蔵は、静岡や久居で見聞を広め、小学校教育の立て直しをはじめることを決意して、 校長として学校の歴史を明らかにすることからはじめました。 まず由緒ある藩学校の伝統を踏み、県下でもいち早く創立された学校ということをあげ、 「菰野小学校沿革誌」と題して、在職中三巻にまとめました。また郷土の歴史も綴り学習の副読本を作りました。 大正十年には、ときの内閣から正八位勲八等、高等官待遇に叙任されました。 同十一年に明治十九年以来三十七年奉職の教育者を退職しました。
 同十四年には、請われて村会議員に就任しました。同十五年、 ときの村長辻正道から村史編さん委員の委嘱を受け、村内を隈なく歩き苦心して史料の収集につとめ、 自宅で専心、執筆に携わる毎日でありました。昭和三年に村は、菰野町になり、謙蔵の調査、 研究は休みなく進められ、昭和十六年一月十五日にめでたく七百頁の町史が完成しました。 この頃は郷土史の研究も一般に浅く町史の刊行は県下でも稀な事業として他市町村から羨望されました。
 この謙蔵、執筆の町史原稿は、全部毛筆で丁寧に書かれております。 現在、書くことはワープロに替わりつつあるとき、神業の様な筆の跡に手を合したい気持です。 この旧菰野町史は現に名古屋の古書店で稀覯本として、大切に取り扱われています。