第260回

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田相と束刈り称  文 郷土史家 佐々木 一
稲を刈り地干しをする
田相と束刈り称  人の顔だち、容貌に、その人の人格、個性が現れて、一人びとり顔の相が違うように、かっての菰野あたりの水田は、一枚ごとに一つの顔を持っていました。
 鎌や、鍬を手に持つ百姓の顔にその人の、人がらと個性を見るごとく、一枚の田にも、そのところの地形、等高線など、まわりの自然の条件によって、一つの顔つき、すなわち田相を見ることが出来ました。
 そして水田に水を入れる水口、水を落とす水戸の位置も一枚いちまいが異なり、大きい田、せまい田、三角や菱、ひょうたん形、丸い田など、同じものはなく、それらの個性に富んだ田の相は、開墾して田んぼにしたときの産の姿と、それから永い年月の営みの結果、出来上った顔、相でありました。
 また、水田の呼称も、大畝ばち、中畝ばち、小畝ばち、丸畝ばちなど、せばちは、畝町が転訛なまってよばれたもので、田の面積、反別を、大雑把に大、中、小にわけて下に畝町をつけてよんだものでありましょう。
 そして農家によっては、その田を開いた人の名を継承して「孫次郎田」など苦労して買い入れた先祖の名前をつけたり、祖母が化粧料として嫁入りのとき実家からもらって来た田は、「おしろい田」などと呼んでいました。「丸畝町」は、唐鋤で鋤く場合、隅打をしなくてもよいように、はじめから丸い形の田に造成したようで「車田」も同じものです。
 「束刈称」は、古代の律令下の定めでは、田の租税が一反に稲二束二把であり、一束五把、あるいは、六束を納めるときもあって、田相率が何束何把であったので田の面積、呼称も刈り取った稲の束数によって呼んでいました。
 菰野あたりでは、一反を四〇束刈り、五畝を二十束刈り、三畝を十五束刈りと呼んでいました。一反三畝もあると大畝町、五〇束刈りといいました。これは、この間まで、農業構造改善事業の行われる前まで、どこの農家でも何反何畝といわず、何束刈りと、昔から大祖父たちが、よんでいたのを、そのまま継承していました。
 この「束刈称」の分布は、伊勢から近江、越前、遠く、東北の山形、秋田あたりまで及び、菰野の一反四〇束刈りは、信州の善光寺あたりも、不思議に同じ四〇束刈りでありました。
 稲の一束とは十把のことをいい、一把は四つかみ、三かさね、十二株のこと。一歩では三六株であり一畝で一〇八〇株。一反で一〇八〇〇株、これを把に直すと一歩で三把、一畝で九〇把、九束。一反では九〇〇把、九〇束の勘定になります。昔の一反四〇束の計算の根拠が詳しいことは、わかりませんが、往古は乱雑植か、直播きで、刈取った稲の一把が小さく、九〇束の半分ぐらいであったとおもわれます。
 明治から田植の方法も、綱を用い、正常植をするようになり、一歩当りの計算も、一反の束数も出来るようになりました。
 なお脱穀の終わった稲藁を屋外で自然乾燥を行うために、藁すずみを作り畔くろに並べて置きました。これも数が決められていて、台座に十二把、一しがえ四把を、五しがえ二〇把、これを六段、重ねて上へ積んでゆく、全部で一三二把となり、二四把を一束とするので五束半となりました。すすみの大きさで、田地の広い、狭い、地味、肥瘠、豊凶の目安にもなりました。