第261回

バックナンバー

蛇不老山  文 郷土史家 佐々木 一
蛇不老山
蛇不老山  今年は西暦二〇〇〇年、しかも庚辰の年。たつの年とは、まことにめでたいこと。昔は皇紀何千何百年といい、 西暦との差が六六〇年あって昭和十五年(1940)が、皇紀二六〇〇年に当りました。
 この年は戦時中でもあって「神武天皇が日向国の高千穂宮を出て瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、 八咫烏の先導にて長髓彦を平定して辛酉の年(前 660)大和国の橿原で即位をされた」と、その訳を二月十一日の紀元節の祝賀式に、フロックコートに白い手袋姿の校長先生から拝聴したものでした。
 話かわって今年は、辰の年、たつは「りゅう」のこと、竜はインドの神話の中で、蛇を神格化したもの、 竜は大海や地底に棲み、雨雲を自在に支配するといい、また仏教では、仏法守護の、竜神として崇められてきました。
 竜は、雨乞いの神としても信仰を受け、鈴鹿山脈の中では竜ケ岳(1100米)、竜王山(826米)、蛇不老山(512米) などの山があります。
 なかでも菰野の蛇不老山は雲母峰(875米)の下にある支峰で、すり鉢を伏せたような穏やかな山容で、 その麓は、床机本、火除野の高原が広がっています。 この蛇不老山には、むかし大蛇が棲むといわれていました。 いまは、檜や杉が植林されていますが、むかしは笹山でした。 となりの雲母峰が全山、萱山であったので、その下の蛇不老山は紅笹、根笹の生い茂る山でした。
 この山の頂上付近には、やわらかい紅笹が一面に生えていて、そこは、大蛇が、丸くなって、とぐろを巻いて寝る棲かといわれ、鎌を入れずに残していました。中腹から裾野の方は、細くしなやかな肥えた笹が茂り、牛の餌にもってこいでした。また夏の土用に山で刈り干しにして、乾くと束に結い、一駄、二駄の荷にして牛の背にのせたり、人の肩で負うて家に運びました。
 あるとき、村の若者が、夢中になって草を刈っていると、その側へ音もなく、この山の大蛇の子が遊びに、あらわれて刈干草の上に長く体をのばしたり、弁当ふごをひっくり返して、いたずらするので、追うと、大蛇の子、車の輪の様に丸くなって若者を追いかけてきたりする、人には害を加えないがトンキリ棒ぐらいの太さがあるので、姿を見ると気色が悪い、このことを村へ帰って庄屋へ申しでた。百姓たちの困るはなしを聞いた庄屋は、恐れながらもといい、藩の役所へ届けでた。 それがいつしか、お殿さまの耳に入った。「わしの領下の蛇不老山で蛇が民を脅すとは、もってのほか」と、おおせになり家老をよんで退治方法を命ぜられた。
 家老は、蛇は竜神のお使い、殺すわけにはまいらず、春の巻狩りの日に、床机本で「大蛇大祓い」の神事を行うことに決めました。正月すぎの良い日をえらび西菰野の平岡神社の禰宜に大祓いの祝詞を上げてもらった。このとき、巻狩りのお殿さまをはじめ、狩りの武士、勢子の百姓ら大勢が一斉に、 山に向かって「くちなわでてけー」と大声を張りあげた。 大蛇はまだ、土の中で眠っているので、さらに銃砲隊の武士が一列に並び、頂上の紅笹のあたりへめがけ火縄銃を打ち放した。
 こんな「大祓い」をしたせいかその年の夏には蛇は姿を見せず安心して草刈りができた。あとで古老の話では、「蛇不老山の主は鎌の南の水沢峠から大雨の日に野州川へ下り、大水と共に琵琶湖へ帰っていったそうじゃ」と、いうことでした。このはなしは菰野藩士の「近藤又右衛門先祖聞書」の中に書かれていました。