第262回

バックナンバー

菰野藩分領地 近江の羽栗村  文 郷土史家 佐々木 一
羽栗村の法林寺
法林寺  慶長五年(1600)土方雄氏は家康から一万二千石の封地を与えられ、それは伊勢国に一万石、近江国に二千石ありました。
 近江の領地は票太郡羽栗村、南笠村、上笠村、部田村の四カ村でした。その内、部田村は宝永二年(1705)三世雄豊の代に分家を創立して弟の久長に与えました。残る三カ村は合わせて一千石、この羽栗、南笠、上笠村は菰野藩の分領地として明治まで続いていました。
 その中の羽栗村について紹介します。現在は、大津市田上羽栗町といい、世帯数161、人口620で大津市の中心より南に当たります。
 交通は東海道線の石山駅を下車また国道一号線では瀬田大橋から瀬田川に沿い、有名な唐橋を左に見て南へ、やがて石山寺の山門前から、なおも南へ、瀬田川に架かる「南郷洗堰」を渡ります。この堰は明治三七年にできて琵琶湖の水位を調整する唯一の堰です。ここからは支流の大戸川に沿い県道「南郷、桐生線」を行くと、羽栗のバス停があります。羽栗の集落は、この道路に沿い東西に連なり、家並は集居村の古い村落形態を残しています。
 村の中心部に真宗大谷派の福円寺、その西に浄土宗の法林寺があります。この法林寺が土方氏ゆかりの寺で、寺の紋に左三つ巴が見られます。寺の門前に古い観音堂もあります。神社は集落の南の丘陵にあって須賀神社といい、この宮山から江戸期に石棺が掘り出されて長さ六尺、巾四尺と庄屋の記録にあります。
 この宮山の背後に続く山地は田上山といい、古代は檜の良材が豊富に産出することで有名、藤原京や東大寺の建立のときは、この田上の檜材を伐り出し、大戸川から瀬田川、宇治川と流して奈良の都へ運んだといわれています。
 寛政七年(1795)の庄屋の記録では羽栗村の戸数五一軒が菰野領、残る三軒が膳所藩本多領であって、その三軒は、東の福円寺あたりといい、このころ人口は男141、女128、合計269であったと、庄屋吉右衛門が記しています。
 この遠く離れた分領地と本藩、菰野との連絡は、毎年春秋の二回年貢の徴収、民政の状況の調べのため、菰野から代官役が二名派遣されて三カ村を巡回して、それぞれの村の庄屋から実状の報告を受け、道路、水路の普請の願い、東海道へ助郷人馬の加役と一里塚、松並木の掃除の割当など村政の運営のための細かい打合わせ、相談が行われました。
 日常普段の連絡は、菰野から飛脚便で、文書で以って庄屋宛に達して、それを三カ村の庄屋が持ち回りで伝達し、その返事を飛脚で菰野へ送り返すという方法が取られました。
 この分領地の羽栗村は村高が三三六石、南笠村三〇三石、上笠村四〇一石で合わせて一〇四〇石でしたが、地理的にも東海道と中山道の交わる地点、そして逢坂山を越えれば京の都、その喉もと扼する軍事上にも重要な土地柄、その上琵琶湖、湖岸の肥沃な地味、米の収穫も多く菰野藩にとって遠く離れていても大事な領地でした。この羽栗村より上る年貢米から、京都の北山にある藩祖の雄久、雄氏の菩提寺功運院の祠堂米二〇俵が供養に寄進されていました。