第263回

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 山村作左衛門  文 郷土史家 佐々木 一
 明治三年(1870)いちはやく室山の伊藤小左衛門と提携して西菰野で製糸を創業したことは、先に紹介しましたが、今回は先見者、先進地の歴訪など創業までの苦心と、度会製糸場へ移ってからの活躍ぶりを追って見ました。
 西菰野で製糸をはじめた頃は、人力で繭から糸を繰る、原始的な方法でしたが、同六年から器械を使い製糸をすることを考え、それには資本力がいるので会社設立のことを県庁の勧業課へ具申しました。
 そのご伊藤小左衛門をはじめ、県内の生糸売買業者二十七名に呼びかけ「三重生糸会社」をつくりました。しかし器械力を利用して労力の軽減、製品の増産を図っても、生糸そのものの品質の向上が大切であると考えました。
 まず自家生産の自慢の製品を風呂敷に包み、貿易港の横浜へ向け旅立ちました。横浜では清国の貿易舘を訪ねて持参の生糸を見せました。これは「練り」不足で商品価値なしといわれて落胆、つぎはオランダ八番街の仏人ブリュナー氏に会い、西洋式の製糸法の教えを乞うたところ、それは群馬県の富岡官営製糸場へ行けと奨められました。横浜から急ぎ八王子、熊谷、高崎と北上して富岡製糸場へ行きました。この工場は煉瓦造りの蕭酒な建物に、 蒸気機関が据えられてその規模に驚くばかりでありました。
 群馬は養蚕と製糸の先進地、折角ここまで足を運んで来た、この地方の先見農家を訪ねんと、まず雄氷峠下の萩原藤十郎の製糸場を見学、隣村の桑島新平の養蚕部屋を覗く。そして前橋の勝山製糸場を。そして北埼玉の児玉郡の木村九蔵。ここの九蔵は蚕の飼養法を教える伝習場を開いていました。
 こうして上毛地方の先進地をめぐりつぎは雄氷峠を越え信州の佐久平へ入った。 中山道を通り和田峠を越えて諏訪まで来た。ここで長谷川、富田製糸家を訪ねた。 そして目指すは岡谷。ここで小野組という工場で水車を回して運転するを見て、 その様子を写生した。ここで製糸技師の今井治三郎と工女の小松むね二人に、 話をして雇入れることにしました。
 こうして二人を連れて木曽路を経て菰野へ無事帰着、ただちに水車を増設し、工女も増員した。そのご、製品の生糸を共進会、博覧会に出品すること九回に及び、そのつど伊藤博文、松方正義、西郷従道らの署名入りの褒賞を受けました。
 この間、工場の経営資金は伊藤小左衛門の援助を受けていましたが明治十八年、 横浜生糸相場が崩落して遂に工場閉鎖の止むなきにいたり宇治山田へ移ることになりました。
 このとき県は作左衛門の技量を見込み、新設の県営度会製糸場と明野勧農場の場長を命ぜられました。ちょうど、この頃、名古屋の実業家神野金之助から、著名な養蚕家と製糸業者の名を知りたいの手紙が来た。そこで作左衛門は、自分が実地に訪ね見聞した群馬、長野の人々の名を知らせました。 このことが機縁となり、神野との深い交友がはじまりました。 二人は不思議に嘉永二年(1849)生れの同い年でした。
 そのご同二十三年度会製糸場を名古屋の神野金之助が譲渡を受けて工場の施設は近代的な洋式機械に改められました。これも作左衛門の意向を取入れてのことでした。新工場の運営の一切を委ねられた作左衛門は全力をそそぎ、同二七年、シカゴで開催の万国博に生糸を出品して見事に金賞を射止める成果をあげました。作左衛門を見込み資金を提供した、金之助は、こののち名古屋鉄道などを興した著名な実業家でありました。