第264回

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 海 蔵 川  文 郷土史家 佐々木 一
 海蔵川は、千種城の北、城の岬あたりを水源として、役場千種支所南から千種小学校西で北に折れ、岡集落に向かいます。またこのあたりでは溝川の域を出ず、岡から池底の椋木橋でようやく、川らしくなります。それより大強原、下村の北側、諏訪、川北の南を流れ下り四日市市下海老の東あたりで、支流の竹谷川を合流します。さらに西坂部で江田川を受け、小杉の中倉橋の西 で部田川を合わせて、末永に至り、南を貫流する三滝川に350メートルほどの至近距離に迫ります。 ここまで来ると川巾もひろくなり、堤に桜も植わり大川の相を見せます。
 河口は、左に四日市市羽津霞第二野球場、右に中電四日市火力発電所を見て伊勢湾に流れ入ります。
 千草を源に出発してから、右に左に蛇行してその総延長は十九|余となります。
 海蔵川は、古くは川原妻川、川原須磨川とよばれていました。それは千種山の分水嶺あたりを川 原妻山、川原須磨山といわれていたことからとおもわれます。下流の方では、 下海老原川、羽津川と、川辺りの村の名がついていました。
 この海蔵川の名のおこりは、昔、河口付近の浜辺に海女たちが漁りした海産物を納め置 く蔵があってその海蔵が、あくらになり、阿倉、安久良、飽食の文字を当てていて地名は訓読み にして阿倉と、川は音読みにして海蔵とよんできたといわれています。
 大昔は、奥郷の西あたりで朝明川が分流して海蔵川とつながっていたという話もあります。 江戸の初期の慶安三年庚寅に、俗に「寅の洪水」といわれておそれられた大洪水がありました。 池底村は、椋木橋の東あたりにあって大水で流され、万治元年に海蔵川の北、 安全な高みに村移りをしています。
 そのあと天明三年(1783)六月に海蔵川周辺の村、東阿倉川庄屋惣兵衛をはじめ、 末永、野田、生桑、小杉、坂部、海老原などと上流の川北、下鵜川原、上鵜川原、諏訪、池底、 潤田村の庄屋も名を連ねて、奉行所へ嘆願しています。そのお願いは、
 川原妻川の一の瀬から堤防は年々堅固に普請をなされ、ありがたく存じそうろう。往古は川瀬、北筋に流れおり候処、先年寅の洪水より川瀬次第に南に寄り、それに石堤、猿尾など大方流失、水先は南へ突き当て南岸の松林など大方流れ申候。近年洪水多く候故、格別案じ居り、千草の一の瀬大事の場所に候えば、堤防一段と堅固に築き下さる様願い奉り候。海蔵川の川下、東海道往還筋も、先年ことごとく押流され御用、ご通行にも差支えご公料田地は勿論、川堤千二百間も切れ候。このままでは人命にも大難が及び候と存じ、一の瀬囲い普請、川瀬、北筋に瀬替え下さる様に必死の水難お救い下さる様、村々一統ひとえに願い奉り候。以上。
 この嘆願書にある川原須磨川一の瀬は、いまの朝明川の千草発電所から奥郷橋までの川原をいいます。昔は川の流れが北岸の草里野寄りであったが、寅の洪水から瀬が変わり南寄りになっている。このままでは奥郷浦から、海蔵川へ流れいることは必定として言い切っています。これは朝明川の上流が崩れ易い砂山で、その砂が奥郷裏あたりで堆積して河床をかき上げて、洪水の際は一面の水原となりその上蛇行して川岸の堤を破潰した様であります。平素は小河川ですが一旦大雨となると荒れて沿線に大被害を及ぼしていた様であります。