第265回

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雄氏の夫人 玉雄院  文 郷土史家 佐々木 一
見性寺にある玉雄院の墓碑
写真  菰野藩主一世雄氏の夫人は、幼名八重姫、のちに奈於と改め、玉雄院は諡号であります。 父は信長の次男信雄で、その兄弟姉妹は十一人あって、男八人、女三人、 院は三人姉妹の中に天正十六年(1588)に生れました。 それは祖父信長が本能寺で光秀の謀反により自害して六年あとに当ります。 世はすでに秀吉の天下になっていました。
 院は、僅か四歳のころ、父信雄に仕える雄久の長男雄氏に妻合わせる約束ができてました。 そのあと織田家では院の傅育者として桑原伝左衛門が命ぜられました。
 その後、秀吉が北条氏征伐のあと秀吉と父信雄の反りが合わず、嫌われて秋田から那須、伊予まで追放を受け、各地を配流の憂き目にあいました。このとき雄久は、主君信雄の側を離れず常に従い、その忠誠ぶりに秀吉の怒りも和らぎ文禄の役に許されて、名護屋へ出陣を命ぜられました。
 また慶長四年(1599)の九月、重陽の佳節に大阪城へ登城する家康をひそかに暗殺のデマが流れ、その主謀者は雄久、利長、治長、長政の名が上るのを家康が耳にしました。直ちに雄久、雄氏父子は常陸の太田へ追放されました。その翌年に天下分け目の関ヶ原合戦が起り、雄久は家康の特命を受けて加賀の前田の引き止めの裏工作に当り、 雄氏は人質となって家康の出陣に従いました。
 こうして関ヶ原の大戦は家康の勝利に帰し、雄久は加賀の前田を伴い 家康の大津陣営に謁して嘉賞を受けました。 そこで雄久には能登の石崎で一万五千石、 子の雄氏には菰野に一万二千石の所領を与えられました。
 そして院の菰野にお輿入れは戦乱がおさまり、婿殿雄氏が大名に 取立てが定まった慶長五年ごろとおもわれます。
 また院の実家、織田家においては、信長の長男の信忠は、父と共に京都で光秀に討たれ、その子の秀信は関ヶ原の戦では西軍につき敗れて高野山に入りました。院の父信雄は、家康につき、戦後は大阪天満の館に仮住いであったが元和の大阪落城のあと大和の宇陀で五万石を与えられました。信雄は武将というより茶の湯、和歌の巧みな風流人でありました。
 慶長六年に、雄氏は菰野へ入り城の縄張りを行い一旦、伏見城へ戻り秀忠に従い江戸へ 向いました。江戸は芝の愛宕坂下に上屋敷を拝領、 ここで漸く落ちつきました。そして慶長十七年に跡継ぎ雄高が生れました。 雄氏三十歳、院二十五歳のときであります。
 雄氏は、寛永十五年(1638)五十六歳で京都武者小路の館で亡くなり、院は五十一歳で寡婦となりました。家は雄高が継ぎ、院の付家老桑原伝左衛門が政務を補佐して安泰でありました。それが慶安三年(一六五〇)雄高が急病で倒れ、雄高に子がなく急拠、後継者を決めるに際し、院は京都の雄氏の第二夫人の子、氏久のところに 三人の男子があって、その中の一人、雄豊を選び、跡目に定めました。 藩の老臣の中では織田家から養子を迎える話もあったが、 院は、それを斥けて筋目を通しました。
 院は、雄氏と雄高の菩提を弔うため剃髪して安名尼といい、 城内の一隅に庵を設け見性寺住持に帰依して念仏三昧の日を送りました。また、城の南西に庭を作り、そこに小高い築山を造り、城の南の田圃で働く農夫の姿を見るのがたのしみにしていました。そして野良で農婦の授乳、憩いの場として金渓川の堤に桜と楓を植えさせました。また、院も桜の花、秋のもみじを嘆賞されたといわれています。
 院は、延宝七年(1679)五月二十四日死没、九十二歳という当時としては稀な長命で天寿を全うされました。院は戦国武士雄氏に仕え、雄高、雄豊の三代にわたり、藩の創立期に尽された内助の功は大きく、さすが信長の血を承けられた姫として崇めずにはおれない方であります。