第266回

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内田鵜州と玄対  文 郷土史家 佐々木 一
鵜州、玄対の先祖の墓=
大強原浜井場墓地

写真  内田鵜州は元文元年(1736)に江戸で生まれているが祖父の代に江戸へ出て来た様で、その生国は伊勢国菰野領下の大強原の出身でした。鵜州には十三歳年下の弟があって玄対という画家でした。
 鵜州の家は、祖父の代から江戸で林麓堂という屋号で医者をしていました。鵜州は、生れつき言葉少なく静かに読書していることが多く、父はこれを見て「お前は身を立てるのに学問を修めるべし」と常々いい聞かせていました。
 宝暦元年(1751)の頃、京都の伊藤仁斎の子、竹里が江戸へ出て来て、しかも鵜州の家の近くに住んだのを幸いに、この竹里に師事して古学を学びました。師の竹里が亡くなったので、板倉帆邸に修辞学を修め、また赤松大痩に経義をきわめました。鵜州は、長年儒学の研究を積んだので、江戸城の南地区では、学者の名が高くそこで麻布南の古川辺で家塾を開きました。この塾へ大名や、旗本の子弟も教を受けに集まりました。
 そして安永九年(1780)の四月、菰野から江戸藩邸の医者として藩主に従ってきた南川金渓は江戸に勤務中、各所の学者、詩人画家などを歴訪して盛んに交誼を深めました。殊に鵜州の名声を聞いて、訪ねることになりました。
 当時、鵜州の家は、麻布東の古川沿いの土器観音横町にあって、金渓は、菰野藩邸を出て愛宕神社前の坂を登り、青松寺前から増上寺裏の金地院から坂を下り、古川の赤羽橋を渡り、川沿いに観音横町の家塾を訪ねたものとおもわれます。このとき鵜州は、金渓が菰野藩の儒学者と知って驚き、早速その席へ弟の玄対を呼び、父祖の郷里である菰野の話を聞き入り、互いに手を取りあってよろこんだといいます。
 鵜州は、このころ家に門弟を集め、また近くの麻布、芝、赤坂あたりの大名諸侯の館に出入して教えていた様であります。
 また弟の玄対は日本画を、渡辺湊水、谷文晁に学び、師の湊水に見込まれて、養子に入り渡辺姓を名乗っていました。このとき玄対三二歳、最も画技の円熟した頃で文晁流の山水花鳥を得意としていたので、その門下に画学生が集まっていました。
 そこで玄対は、同郷の先輩金渓を案内して、自宅の北西に当る、鳥居坂、北窪町にある旗本戸川家へ行きました。玄対はこの屋敷で画会を開き門人十余人が居並ぶ盛会で、この戸川家の主は文筆を好む風流人でもありました。
 金渓は、また日をあらため、非番の日に再度、鵜州、玄対の兄弟を訪ねています。鵜州の家の近くの麻布一本松に、菰野藩主の隠居所、下屋敷があり、その隣にも日出藩木下家の中屋敷がありました。
 この鵜州は、名を叔明と名乗り号を頑石、冠嶽、文道と称していました。ほかに酔郷太守、酣楽都督と自称するほどの無類の酒好きで「妻を持てば費用もかかり自由気儘が出来ない」と、うそぶいて酒に親しみ、読書三昧の暮しであったようです。寛政八年(1796)六一歳で亡くなりました。
 弟の玄対は、旗本の邸宅で画会を開くほどの人気画家となり、文晁流の高雅な山水や花鳥画は、江戸の諸侯の趣味に合い好評を受けていました。玄対は文政五年(1822)に亡くなり七四歳でありました。その子の赤水は、伯父鵜州と父の玄対の菩提を弔うため、はるばる遠い菰野に帰り大強原の随法寺と先祖の墓に参詣しています。玄対の絵は、寛政の「諸名家合作書画」の中に文晁や江漢と名を並べるほどの評判画家でありました。