第269回

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菰野藩祖三百年祭のこと  文 郷土史家 佐々木 一
雄氏遙拝塔婆前での記念写真
記念写真  土方雄氏は慶長五年(1600)に知行高一万二千石の菰野藩を創立しました。 そして治世三十五年、寛永十五年(1658)に病没しています。
 雄氏の没後百年は、元文二年(1737)に当たり、藩主は五世雄房の代、菩提寺見性寺は六世関梁和尚の代でした。このとき本堂、山門を再建して百年目を迎えています。
 また二百年は天保八年(1837)十世雄興の代、見性寺は九世寂湛和尚のとき、傷んだ本堂、庫裏を修復して法要を営んでいます。
 そして三百年目は、昭和十二年(1937)の四月二十五日から二十七日まで、三日間にわたり、広幡神社と見性寺において、祭りと法要が行われました。当主は十四世、子爵土方雄武で、見性寺は十五世寛海和尚のときでした。
 まず広幡神社において二十五日、藩祖三百年祭が行われました。このとき横山重一宮司は病気で、その代理に水沢村葦見田神社の豊田明道宮司が司祭となり祭事が営まれました。
 参列者は、土方子爵家四人をはじめ、県知事代理総務部長、黒沢隆吉町長、隣村の千種、鵜川原村長らと原文一菰野小学校校長ほか町内外の来賓者百五十人ほどの参列がありました。神事のあと菰小講堂に移り「土方子爵家歓迎午餐会」が催されました。このとき当主の子爵雄武は、英国のケンブリッジ大学の留学から帰国したばかり。実父の元日銀総裁の土方久徴が謝辞を述べています。また元菰小校長の近藤謙蔵が「藩祖土方雄氏の略伝」と題して講演が行われました。
 このあと子爵家一行は京都北山にある功運院の雄久、雄氏の墓参に向われ、二十六日は見性寺の本堂、墓地の清掃など準備作業に当てられました。
 明けて二十七日は、快晴の日和となり土方一行も京都より帰山、見性寺本堂の雄氏木像、霊牌の前で導師津田寛海和尚をはじめ、衆僧九名で読経、供養が行われました。子爵家および代表者の焼香があって、つづいて山内の墓地の墓前供養があり、東墓地の玉雄院碑の傍らに新しく雄氏遙拝塔婆が建てられて、法会が終りました。
 この日、三百年祭を記念して城下町では「大名行列」が催されました。これを見物するために金渓川見性寺橋に臨時の物見台を設けました。折から大名行列は明福寺前から金渓川堤へ繰出し、見性寺橋から北へ、西覚寺前から東町へと入りました。子爵一行は物見台から、これを観覧しました。
 このあと参列者一同は、再び見性寺本堂へ戻り、御斎の膳につきました。この席で、子爵家から三百年追悼の法会謝礼の挨拶があって三日間にわたる祭事が滞りなく終了しました。
 当主土方雄武は英国より帰国して宮内省式部官に就任、のち戦時下になると台湾総督府の施政官になっていました。また土方久徴は昭和三年から同十年まで七年間、日本銀行総裁に就任、斎藤実、岡田啓介内閣の経済、金融を支えて昭和恐慌を乗り切りました。この法会のあと昭和十七年、東京市千駄ケ谷の自邸において死没、行年七十二歳でありました。久徴は菰野藩の分家近江の部田一千石の旗本土方久己(半三郎)の二男に生れました。前代の雄志も当主の雄武もこの分家の久徴の家から出て本家の跡を継いでいました。