第271回

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伊勢先生のこと  文 郷土史家 佐々木 一
伊勢先生の墓碑
伊勢先生の墓碑  新潟県中頚城郡中郷村片貝は、県の南部、頚城平野の尽きる、妙高赤倉高原の麓にあります。 ここは日本一の豪雪地帯、近くの高田はスキーの発祥地であります。
 この中郷村は人口5500余りの過疎の山村ですが、縄文遺跡の所在する村として有名です。 この村に隣接の上越市高田城は、桑名藩の松平定重が移封になった城です。 また近くの板倉町は親鸞聖人の妻、恵信尼の生地といわれています 。現在は村の中心を新しい上越自動車道が開通しています。
 この中郷村片貝小学校の東側を走るJR信越線の踏切を越え、 広がる水田の畔道を行き、溝川の一本橋を渡ったところに 「伊勢先生」の墓はあります。妙高山地の花房山の麓で標高325メートルの 丘陵地でそこからは、片貝小学校から村全体が一望できる見晴らしのよい所です。 道は細い農道ですので中郷村教育委員会の岡田善信氏に案内してもらいました。
 お墓のまわりは、美しく草も刈られ、お花も供えられてあり、今日は八月十五日、 越後のお盆の日であります。碑の前に膝を折り拝むと、その表には「壱岐文弥之墓」 と細い文字で刻まれています。碑石は、その付近にある自然の青石で硬く、 深く彫ることは出来ず、碑の裏へまわると更に細い字で、
 勢州三重郡下鵜川原村
 父壱岐文太夫長男壱岐文弥
 明治十一年八月二十四日没
 施主 学黌生中
と読まれました。碑の側に一本の木柱が立てられていて、
 昭和四十九年二月八日、有形文化財指定「壱岐文弥之墓」と記されています。
 中郷村教委に残る記録では、伊勢国三重郡下鵜川原村八十九番屋敷。壱岐文太夫神官、 文政元年戊寅(1818)十一月十日生まれ、長男壱岐文弥、天保十四年癸卯(1843)生まれ。
 そして片貝村に語りつがれている「伊勢先生」の伝説では、
 父の文太夫は伊勢神宮のお札を配って諸国を巡り、それについて文弥先生も越後へ 足を踏み入れて、この村についた。片貝村には、津藩出の公田権右衛門という人が、 先にやってきて、北国街道沿いの郷会所の前に筆塚を立て残してゆかれた。 この筆塚を目にした文弥先生は、同じ藤堂藩の先輩であることを知り、この村に格別 の親しみを覚えた。その上、村の人々の純朴な情にほだされて、この村に逗留すること になった。村の郷会所で寺子屋を開き、村の児童や青年に読み書きを教えた。 先生は郷里の伊勢で、早や英語も学ばれており、それを教えられたので、 当時、英語の片言が村では流行ったという。
 こうして文弥先生は、熱心に教育に努めたので「伊勢先生」の愛称でよばれていた様です。 この壱岐文弥は天保十四年(1843)生まれ、明治十一年(1878)三十五歳の若さで亡くなりました。 それは盛夏の折、激しい流行病に罹ったのではないかと思われます。 「伊勢先生」と呼び、慕い親しんでいた生徒や村人は、その死を悲しみ、 村を一望できる小高い所に、お墓を立てたものであります。 寺子屋は、片貝学校になり、更に片貝小学校に発展してきました。
 このお墓のすぐ西側に、片貝村の宮下家の石塔が一基たち、代々宮下家の方々に守られているようであります。