第272回

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三宅元みん著「道徳経会元」  文 郷土史家 佐々木 一
「道徳経会元」
道徳経会元  この「道徳経会元」という経本は、菰野藩に仕えていた儒学者、三宅元みんが寛文二年(1662)に出版を企画して、版元の中島伊左衛門に依頼、それは板に文字を彫り、上中下の三巻に分けて刷り上げて綴じたものです。執筆と印刷に手間がかかり、5年後の寛文七年(1667)に、漸く出来上りました。
 この「道徳経」は、中国の文宣王といわれる孔子の教えを、さらに探求して、孔子の没後、120年ぐらいのころに儒学者の老子が説いた口述といわれています。
 時代は、日本では弥生時代、紀元前250年ぐらいで、中国では春秋、戦国の争乱時代にあたります。この時代は、大よそ550年もつづいたといわれ、その後、秦の始皇帝が出て全国を統一、あの壮大な、万里の長城を築いています。
 この戦国時代を「世は衰へ道は守られず、臣は君を誅し、子が親を殺め、邪悪横行」のこと多く、この世相を憂い、孔子、孟子らの儒学者が現われました。
 ことに孔子は、仁を理想の道徳として「民を愛せよ、慈愛の心を持てと」。戦乱の各地を遊歴してその理を説いたが、真に耳を傾ける国主はなかった。
 さて、老子は河南省の人、戦国時代の東周の都、洛陽を避けて黄河の上流、函谷関へと逃がれた。その関の長官である尹喜が、老子に教えを求めてきたので、橋の袂で道徳経を説き、二巻を授けた。この故事は有名な話で、広幡神社の絵馬にも、師弟の姿が美しく画かれています。
 また老子の教えは、印度からの仏教の受入れにも寛容で、日本では林羅山や萩生徂来も信奉していました。
 この三宅元みんは、菰野藩二世雄高の代、寛永十九年(1642)に儒医として仕官、その父、玄南は和泉国堺町の出身でした。元みんは早くから京都へ出て、饗庭東庵の門に入り医学を学んだ。師の東庵は曲直瀬道三に医術を修めました。その教えが難しく、師の口述を文章にして、それに解釈と注記を付けたらと考えていました。
 学成り、術を修めて菰野に帰って著述につとめ、東庵の教えを、上中下の三巻にまとめました。とにかく、この「道徳経会元」は、菰野の学者で一番最初に、公に刊行された本であります。元みんは、この本の完成した翌年の寛文八年(1668)3月25日に亡くなり、誠に不運の人でありました。
 藩祖の雄氏が、寛永十五年(1638)に死没、その4年後の寛永十九年に元みんは仕官して二世雄高に仕え、藩に出仕すること26年間で亡くなっています。この頃の藩の「分限帳」に、「三宅元みん百五十石」とあって藩の重臣竜崎半右衛門、高槻右門と肩背を並べる高禄の礼遇を受けています。当時藩においても学門尊重の風がうかがえます。
 元みんの菰野における学業は、この経本3冊が現存するだけで大方は不祥ですが、雄高、雄豊の二代に仕え、君侯たる者の守る道を講じたものでありましょう。
 三宅家の菩提寺は、西菰野の金剛禅寺で山内の墓地に、父玄南の延宝七年(1679)をはじめ、子孫の方の墓碑が並んでいます。また三宅家から分かれた篠塚権之進の墓も共にあります。