第273回

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えびやの赤松  文 郷土史家 佐々木 一
「えびやの赤松」
えびやの赤松  千草集落の中心、「常夜燈籠」の西、福田貞郎家の庭に一本の赤松が枝葉を青々と茂らせています。この松は「えびやの赤松」とよばれて、村一番の名物松です。幹の太さは目通り1.70m、大人で一抱えほどの大きさです。樹の高さは、土蔵や母屋の屋根をはるかに越えて10mほどもあります。
 枝は、四方に広がり、松のみどりも旺盛で、松喰虫も寄せつけず、元気な姿を見せています。根も太く母屋の床下へ潜り込み、座敷の畳を持ち上げる勢いです。
 赤松は、黒松にくらべて葉はやわらかく、幹は亀の甲状になって赤みを帯び、年を経るごとに光沢を増してきます。この千草の土地は砂壌土で水はけも良く、赤松の生育に適し、千草の赤松といわれ、棟木、梁などの良材を産出しました。

 さて、この赤松の来歴は、福田家の4代前の重郎次(兵蔵)の代に、裏の松林から松の実が風で運ばれてきて、土蔵の北側の庭に自然に芽生え、それを大切に育てたもので、樹齢は、おおよそ150年ほどであります。
 この松のある福田家ですが、先祖は、元禄の頃から続き、現在の当主まで、おおよそ九代続いています。この家の屋号を「西海老」といい、ここから分かれて「東海老」「中海老」「南海老」と呼んで繁昌しています。
 この「西海老」は代々、兵蔵、貞蔵の名で襲名して、なかでも安政三年(1853)には、福田兵蔵が忍藩から苗字帯刀を許されています。この兵蔵の代から「海老屋」の屋号で「生薬屋」をはじめました。

 その頃の「薬屋」は、主にくすりとなる薬草の根や葉を乾かして、薬研で、磨り潰して、風邪、腹痛、頭痛などの家庭常備薬をつくり売っていました。この「海老屋」においても、幕末から明治初年の頃は男衆4、5人を雇い、天秤棒で薬箱を担ぎ、北伊勢はもちろん、千草峠を越えて、甲津畑から八日市、八幡と千草街道の周辺の村々に、手広く配置売薬を行っていました。
 ことに蒲生郡日野町には「六神丸」という名高い薬種商があって、その店と手を結び、近江一帯を行商、甲津畑には駐在員を置く盛況ぶりでした。いまでも家に古い金ピカの大きな看板が残されています。

 この赤松の前の道は、千草街道に、南から来た巡見道を受けて、しばらく西へ200mほどのぼり、右に折れて分岐、三岳寺の前を通り、北の松林を抜け朝明川原を渡り杉谷へと通じています。
 また、一方の千草街道は中世からの交易路として知られ、近江商人や伊勢商人の手で、海産物や木綿などが盛んに運ばれました。千種城は、こうした交易商人から関銭徴収のために街道に睨みを利かしていました。近江の観音寺城の佐々木六角、日野城の蒲生賢秀も、たびたび峠を越えて伊勢へ攻め入りました。いまでも「ガモジがキタゾー」といって怖いものの例えにするのは、この「蒲生氏」のことです。

 なお信長が元亀元年(1570)京都から岐阜へ帰る途中、日野から甲津畑へ入り速水勘解由の案内で密かに千草街道を通っています。このとき善住坊がねらい打ちしたのは有名な話ですが、この街道の起点の「えびやの赤松」。そして峠の向こうの甲津畑の速水勧治家の「信長の駒繋ぎ松」ともに二本が元気に枝を広げていることは不思議に思えてなりません。