第274回

バックナンバー

雄豊の伯父 楚活禅人のこと  文 郷土史家 佐々木 一
「草津市青地町」
草津市青地町  菰野藩主の二代目、雄高は慶安四年(1651)四十歳で亡くなりました。父雄氏は十六年前に死亡、その後継について、生母の玉雄院は心を痛めていました。雄氏が京都にいた頃、その館の妾腹の子に氏久があり、氏久に三人の男子がありました。その三人目の雄豊に玉雄院は白羽の矢を立て、三代目を継がせることにしました。
 この雄豊の父、氏久は、雄氏が京都の館に居住の頃、商家の出である側女お市の方との間に生まれた人でありました。氏久は早くから父に従い、京都と江戸を往来し晩年は病気勝ちで寛文十年(1670)に亡くなり三田の浄林寺に葬りました。
 一方、氏久の妻は、名を満といい、すなわち雄豊の母で、元和元年頃に生まれ、その父は、水野忠清といい三河武士で家康の家臣、はじめ刈谷城主で三万石、三河吉田城に移り四万石、また信濃松本城へ移り八万石の城主となった人でした。そして母は加賀の前田利家の娘で、両親共に大名の名家の出身でありました。
 そして満の方の水野家の兄弟姉妹は男六人、女六人ありました。兄の忠職と忠増も大名になり弟の忠直も、松本城主を継ぎ、女姉妹も、それぞれ大名のところへ嫁いでいました。
 満の水野家の四人目の兄を水野主膳忠隆といい、またの名を「楚活禅人」と称し、半俗、半僧体の人でありました。次の弟の拙叟は京都の妙心寺の塔頭養賢院を創建しています。この楚活と拙叟は、大名の家に生まれながら武士を嫌い、仏門へ入った様であります。
 雄豊は十四歳で三代目の藩主についているので、この母方の伯父、楚活禅人が菰野へ付いて来て、雄豊の陰の補佐に当たっていた様であります。
 この当時、菰野城は、雄氏の夫人、玉雄院が健在で藩政全般に目をいれられていたこともあって、雄豊が藩主として立派に自立してゆくことを見届けた伯父、楚活禅人は、先の玉雄院に対する遠慮もあって、近江の分領地部田村(現草津市青地町)へ隠棲したものと思われます。
 菰野藩にとって部田村一千石は草津宿の近くに位置し交通の要所しかも肥沃な土地で米の収量も多く、遠くはなれていても重要な領地でした。部田村は戦国期、青地氏が山城を構え所領していた所で関ヶ原役後、菰野領になってからこの青地氏を代官に命じて村政を委ねていました。青地氏は先祖からの砦跡に代官邸宅を構えて、年貢の取立てをはじめ民政全般の執行に当たり、重要案件は、菰野の命を仰いでいました。
 こうしたことで、部田の青地氏は、菰野から近江へ来られた楚活禅人を、藩主の大切な伯父君、しかも大名の水野家の出の人であることなどで、随分と丁重に大切にされた様であります。
 楚活禅人は、近江でゆるりと静かに余生を送り、元禄十一年(1698)八十八歳の長寿で死没、青地代官の菩提寺、西方寺に手厚く葬りました。その墓は境内の裏の高いところで「殿塚」とよばれていて、昨年墓域拡張に際し埋もれていた五輪石が出土して、その表に「楽甫楚活禅人」と刻まれていました。これを菰野見性寺文書で調べた結果、ようやく雄豊の実母の兄、伯父に当たる水野忠隆と判りました。菰野藩創立四百年目に際し、雄豊の有縁の方の事歴がここに明らかになりました。