第275回

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正念寺の由緒  文 郷土史家 佐々木 一
「再建中の正念寺」
再建中の正念寺  西菰野にある真宗本願寺派の正念寺は、明治13年(1880)に建立した本堂が老朽化したので、昨年から再建工事が進められています。このたび旧本堂の屋根裏から棟札が、また内陣の蹴込の奥から古文書が発見されました。それらの記録により、この寺の由緒、歴史をたどって見ました。
 戦国期の信玄、信長が活動する元亀、天正の頃、この寺の遠祖今村紀伊守信政は、山城国市田城2700石を領する城主でした。ここは、現在の京都府久世郡久御山町市田で、京の都を押さえる南の要地でした。
 天正2年(1574)ごろ市田城は落城して近江、美濃あたりを流浪して同12年(1584)秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いに参戦して敗れ、尾張から伊勢へと落ち延び、西菰野に隠れ住みました。
 そして今村紀伊守の武士の身分を隠すため出家して明元と名乗り庵を編み、はじめ真言宗仁和寺を信仰していたが文禄元年(1592)真宗に転宗しました。このとき本尊阿弥陀如来と画像を本山から受けました。寺地は南山の獅子吼に2反余りを求め本堂、庫裏を創建しました。
 天知3年(1683)菰野藩主雄豊の許を得て獅子吼の南斜面を均して五間四面の本堂を再建しました。この頃、三世住職願祐の子の祐昌は、鈴鹿郡上田村(石薬師町西)に行き、真宗高田派の西願寺を創建しています。この寺の本尊阿弥陀如来は、親寺の本尊と瓜2つ、1本の木から取った兄弟仏といわれています。
 また正念寺五世の願応は、享保3年(1718)12月京へ上り西本願寺寂如上人の幹施で従五位権律師の官位を朝廷から授与されています。七世の梅応は、雄房、雄端の2人の藩主の生母である魏光院の篤い帰依を受け、院も度々、獅子吼の寺へ参詣されました。  宝暦8年(1758)1月に65歳で院が亡くなり、その葬儀は正念寺住僧の梅応に導師が命ぜられています。
 安永元年(1773)3月出火により本堂、庫裏などを消失。その後、寛政3年(1791)に獅子吼に本堂を再建しました。この獅子吼は禅寺の正眼寺の北側の山にあって村の中心より離れていて参詣の道も遠く、東の延長寺は早くから村中へ移り居り、その先例にならい正念寺も村中へ移る話がありました。
 それが明治9年に伊勢暴動が起り前田地蔵堂の側にあった湯の峰学校が焼失しました。学校が村の中心に建てられ開校すると、正念寺も獅子吼山から湯の峰学校の南側に移転することが実現しました。
 移転に際し、菰野村戸長の内藤の同意と県当局の認可を得て、明治13年(1880)1月地築に着手しました。大工の棟梁は、中菰野の佐々木善助が指揮して工作に12人が参画、木挽は曽根友治ら2人が当たりました。
 本堂、庫裏の再建普請は、上棟以来、本堂外陣の造作、そして内陣須弥壇の荘厳に手間どり、旧地の獅子吼山からの本尊遷仏式は同16年の1月20日となりました。この日は例年にない大雪で、3日間にわたり落成慶賛大法要が盛大に行なわれました。
 これで村人の多年の願望がかなえられ、2つのお寺が村の中心に西と東に建ち並び、学校も側にあって心の拠となりました。