第276回

バックナンバー

老牛と山桜  文 郷土史家 佐々木 一
「湯の山三之瀬付近の老牛と山桜」
湯の山三之瀬付近の老牛と山桜  この素朴な野趣に富む一枚の古写真は、豊橋市の佐藤和俊氏から頂戴したもので、大正初年頃に作られた湯の山の絵葉書の中の一枚であります。
 写真は、黒毛和牛の背中に大鞍を置き、柴二把を載せ、その鞍の上に少年がまたがり桜の枝を左右に持たせています。牛はかなり年を経た老い牛です。牛の鼻を取る偉丈夫の男は、頭に六方笠をかむり、シャツは縦縞のハイカラなもの、それに紺の股引きをはき草鞋を履いている、着物は単を袖ぬぎして腰に巻き、ずい分と粋な格好であります。
 この写真の牛追いは、余りにも立派な体の男で、誰であろうかと、人にも尋ね、当たったところ、大正二年頃に、湯の山に「花屋」という旅館と茶店を開業した潤田の日進堂、水谷悟の四十一歳頃の姿とわかりました。それは、日進堂が自分の店の前から走らしたバスの前で写した写真と同じ顔です。彼は体重二十八貫もある大おとこで旅館を経営し、バスを走らせた事業家、湯の山の観光宣伝のために四日市の恒川写真館に絵葉書を作らしたものであります。
 日進堂の体が大きいので、牛が小さく見えます。さしずめ、これは牛若丸と弁慶のすり合わせ、日進堂でないと、こんな芸当はできないことだと思われます。そして風景の後ろの方に荷車と柴が見えます。
 この牛は、恐らく下の菰野から荷車に、米や野菜を載せ引き揚げて来て、帰りに柴を積み帰るのをここで日進堂に掴まって写真のモデルになったのでありましょう。
 さて、黒牛のために一言、弁明するに、昔、荷車の無い時は、牛の背で荷物を運びました。牛の背に大鞍を置き、左右両方に振り分けて米や麦なら二俵をのせました。
 湯の山も、道が拡がり、橋が架けられたのは明治二十年過ぎで、それまでは、人の歩くだけの狭い道と丸木橋で、大方、人の肩と牛の力で荷物を運びました。
 また、農家では、夏の草刈り、秋の萱刈りにも牛を山へ連れて行き、日中は木陰で休ませて、夕方刈った草や萱を、牛の背に山のようにのせて家へ帰りました。牛は田を鋤き、代を掻く農作業だけでなく、こうして荷物を運ぶ主役でした。
 なお、写真の後ろに桜の老樹が並んで花をつけています。この場所は、湯の山の三之瀬の上、一本松あたりで、この右手に三滝川が流れています。ここから暫く登ると道の両側に桜の並木。花の盛りは、花のトンネルを潜ってのぼると日進堂の花屋の前へ出ました。いまの町上水道のタンクのあるあたりです。道の左手は、やけはず中小路、西小路と名のついた谷の岩盤がせり出していました。西小路谷の日向で香雲橋を渡り、急な石ころ坂を登ると涙橋に、ゆき着きました。
 湯の山の沿道筋は、春のまっ先きに、コブシが白い花をほころばせ、岩の間にミツバツツジが紫色の優しい花を咲かせます。
 桜の花は、ソメイヨシノが艶やかに口を切り、それが散りはじめるとヤマザクラが全山一斉に咲きます。湯の山の桜は、里より一週間か十日ほど遅れます。
 昔から桜と楓は、「御守木」といわれ、斧と鉈は止められていました。緑の木立の中に、点々と班模様に眺められる桜の花、これは、菰野山ならではの美しい景色であります。