第278回

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越中国布市藩  文 郷土史家 佐々木 一

富山県婦負郡細入村猪谷
富山藩の関所跡


 「越中富山の安本丹それで悪けりゃ反魂丹」と謳われた富山の生薬は、富山城主の前田利保公が城内に薬草園を設けて城下の特産物の売薬業を奨励して、発展させたことは有名なはなしです。
 この富山城の南に、北国街道と飛騨街道が交差する交通の要衝の「布市」という町があります。ここに江戸期のはじめ布市藩がありました。
 実は、菰野藩祖の雄氏の父、土方雄久は、慶長五年(1600)関が原合戦のあと、この布市藩一万石の所領を家康から与えられました。それは、天下分け目の大戦のとき、家康の秘命を受けた雄久が、北陸の雄、加賀の前田利長を押さえて説得の裏工作を行い、家康の勝利の道を開いたからでした。
 この布市は、昔はぬの市を訛って、野々市とよばれて、金沢の西に隣接する野々市とよく混同され間違われることがあったようです。「菰野町史」においても、加賀の野々市と書いていましたが、それは誤りで、越中の「布市」が本当です。
 雄久は、藩の創立当初現在の布市の太平山興国寺前の「殿方屋敷」あたりに館を構えたようです。布市の庄官は常願寺川中流の中地山城の城主であった川上富信の子孫が帰農して雄久所領の代官を勤めていました。
 「金沢市立図書館」所蔵の資料では、慶長十年(1605)の秋十日に、前田利長は富山城の修復のため神通川上流の飛騨の横山から赤坂の山で所要の材木を手に入れた。それを神通川に流して富山城まで運びたいので街道筋の村々の助勢を仰ぎたい。宛名は「猪谷近郷の土方分百姓中」となっています。
 この土方領一万石は布市から神通川に沿い南へ約三十キロほど飛騨と越中の国境まで細長くのびていました。
 ある時、前田利長公は城を出て、鷹狩りをされたが、富山城の近郊に土方領があっては目障りと、自領の能登一万三千石と交換することを目論み、幕府の許しを得て、布市一万石に三千石余分につけ換えてもらい、能登へ移ることになりました。
 これは慶長十三年(1608)のことで、越中布市藩は僅か八年間の治世でした。
 この年の十一月十二日雄久は五十六歳で江戸でなくなりました。
 雄久のあとは、次男の雄重が継ぎ能登の石崎に城館を構えていましたが、元和八年(1622)遠く陸奥の窪田へ移封を命ぜられました。
 窪田藩(菊多)は雄重、雄次、雄隆とつづき、三代目のとき跡目相続でお家騒動が起こり改易処分を受けました。城は潰され、藩主は遠い越後の村上藩へ預けられ悲惨な最期となりました。
 話は元へ戻り、利長が富山城の修築の際の材木の運搬を依頼した、土方領の猪谷村のこと、ここは現在の婦負郡細入村猪谷で高山線の猪谷駅があり、神岡線の始発駅であります。神岡鉱山が最盛期のときは、その基地として栄えましたが、いまは寂れて過疎の村となっています。
 神通川の最上流で、飛騨からの高原川と宮川の合流点で、神通川は谷を深く切り込み、発電所が二つもあります。
 昔はここに関所が設けられて往来の旅人と交易の物資の改めがありました。
 富山の方から米、塩、魚、酒が山国へ登り、飛騨から材木、茶、うるし、蝋、麻、雑穀、炭などが運ばれてきました。荷物は「牽牛稼ぎ」といわれ牛の背に乗せて運び、これが村人の大半の稼ぎとなっていました。旅人は「かご渡し」といい対岸に綱を架け、籠で人を渡した跡が見られます。また、関守りの家には伊勢参宮の通行手形も残されていて、遠い山国から歩いて伊勢まいりへと出かけた越中の人々の心意気が窺われます。