第279回

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天 白 信 仰  文 郷土史家 佐々木 一

杉谷旧公会所
「天白神社御鎮座跡」の標柱

 三滝川に架かる吉沢橋の下、左岸の堤防下に「天白」とよぶ地名が残っています。延享二年(一七四五)の菰野藩の『寺社改帳』にも、「天白明神境内地六畝二十三歩」と記されています。
 また、杉谷の集落の中、旧公会所前の忠魂碑の建つ南側に「天白神社御鎮座跡地」の標石が残されています。
 なお、北へ行って田光川の相生橋の上にある延喜式内社の多比鹿神社も、江戸期には「天白大明神」と言われていました。
 こうして町内に、「天白」にゆかりの神社が三社もあったこと、そして巡見街道沿いの大安町宇賀、同高柳員弁町楚原、北勢町麻生田、藤原町大貝戸、同本郷などに「天白社、天白大明神」とよぶ神社がありました。
 近くの四日市市内にも、川島、八王子、室山に天白社があって、この地域を流れる川が天白川と名付けられています。もっと有名なのは、名古屋市天白区天白町でそこを流れる川が天白川であります。
 なおも東へ行き、遠州灘に流れ入る天竜川、この川の上流の伊那谷を始めとして信濃国全体には、天白社がたくさんありました。
 この天白社は、天白、天伯、天獏、天縛、天魄の字を当て、その社は川の近辺、橋の袂に祀られることが多く、水の神、農耕神ともいわれていました。
 伊勢の天白社の祭神は、土着の麻績の神(麻績とは機織の神)、あるいは天の白羽神を祀ることが多く、帛は、神に供える絹の織物のことで、それが天白となったのだという説もあります。
 この天白信仰を各地に広めたのは、伊勢の御師(神人)が、御札を配り、神楽歌を歌って各地に流布させたようで、当町の杉谷の場合は祭神が天照大神となっています。
 吉沢の天白社は、北伊勢に多い土着の神、麻績天長白羽神であります。田光の天白明神も、土着の神、多比理伎志摩流美神を、天白さんと親しみをこめてよんでいたようであります。
 田光では、八風峠に伊勢津彦を祀っていました。この神は、伊勢の土着の国土神で、大和政権に伊勢を追われ、八風を巻き起こして東国へ逃散したと伝えられています。この伊勢津彦も、先の麻績氏も共に伊勢から東国へと移動して、その道筋は尾張、三河、遠江、ここから天竜川沿いの伊那、諏訪、深志(松本平)、善光寺平、佐久平へと移って行ったと伝えられ、この経路は、山国でありながら稲作が早くからはじめられ、麻を作り布を織る技術も進んでいたといわれています。
 それに、信州の松本市や長野市には伊勢町という町名の多いことと、この天白信仰の天白社の分布も信州に三二九を数えるほどで、東海、中部地方では一番であります。
 これは伊勢の麻績氏の一族が機織りの技術を携え、一方の伊勢津彦は稲作の技術集団を引き連れて、天竜川沿いに伊那谷を北へのぼり棚田を開き、盆地を開拓して信濃の米作りの本になったのだと思われます。
 信濃も北信の佐久地方では、天白信仰も、祭神は須佐之男命や猿田彦命になって時代の移り変わりを写しています。天白も神明信仰も元を質せば、伊勢がその発祥地で伊勢の麻績も伊勢津彦も、猿田彦も渾然一体となって農耕神として信仰されていたようです。