第280回

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がんばれ高橋  文 郷土史家 佐々木 一

昭和30年8月6日高橋選手壮行会
 毎年八月になるとテレビの前にかじりついて、手に汗を握り、心躍らせて甲子園の高校野球大会を観戦する。 そのはじまりは、大正四年(1915)八月十八日大阪豊中で、全国中等学校野球大会が朝日新聞社により開会されました。
 その後、太平洋戦争による中断がありましたが、戦後の昭和二十二年三月に復活され、四日市の富田中学校野球部が出場して、この時は和歌山の田辺中学に惜しくも大敗しました。
 そのあと、学制が大改革されて同二十五年三月、新しく四日市高等学校となり、同三十年八月第三十七回全国高等学校野球選手権大会が甲子園で開催されることになりました。四高もこれに出場して八年前の雪辱を果さんと思い、猛練習に励み、まず県内の予選大会で勝ち進みました。
 三岐大会では強豪岐阜商を十一対一で破り、晴れて甲子園出場の栄冠を勝ち取りました。当時、四高の野球部は池内定雄部長、水谷貞雄監督の指導のもと、主力投手の高橋正勝は菰野町出身でありました。
 高橋の生家は、菰野城下の商店街東町で「清心亭」という食堂を経営していました。父を浜一、母を正子といい、夫妻には五人の男子があって正勝はその四男に生まれました。
 当時、菰野の商店街は野球好きの重盛、鳥越らの人がいて、庄部のグラウンドで草野球を催し、子供らに野球のルールを手ほどきしていました。そんな街で育った正勝は、生来野球が大好きで、菰野中学に入学してからもクラブ活動の野球部に席を置き、その技は人一倍抜きんでていました。
 同二十八年四月、正勝は四校へ進学、野球部に入り池内部長に目をかけられて厳しく鍛えられて投手としての技量大いに進みました。この正勝が三年生になった春から県内の予選大会があり順次県内を制覇して、県代表として甲子園出場をすることになりました。
 このことを知った菰野では八月六日高橋正勝選手を激励する壮行会を催すことになりました。まだ合併前の菰野町で、旧役場庁舎前、いまの表忠碑の裏側で仮に会場を設けて、真ん中にテーブルを置き高橋選手と向かい合うように鵜ア永蔵町長が、小さな体を折り曲げて声を張り上げ「郷土の名誉をかけて精いっぱい闘ってきてくれ」とはげましの挨拶を述べ、それに応えて長身の高橋は腰を折り頬を紅潮させて元気よく決意を表明しました。
 壮行会には、まわりを東町の人々が取り囲み、街の有力者の吉田好、柴田元一、大橋定男、谷清一郎らの顔も見え「がんばれ高橋」の旗を振って送りだしました。
 八月十日、いよいよ目指す甲子園へ臨んだ四高ナインは、初戦の相手は北海道の芦別高を倒し、次は城東、中京商を破り、思いもよらず決勝戦へ進出することになった。相手は四国の雄、坂出高、とにかく高橋は左腕から繰りだす直球と大きく落ちるカーブを駆使して、疲労の左手をかばいながら投げ続け、遂に四対一で坂出商を打落し栄冠を手にした。このとき四高の校歌が甲子園に高らかに響き渡りました。
 十八日優勝ナインは深紅の旗を手に近鉄四日市駅に帰還、これを迎える市民は歓喜して万雷の拍手で沸き、この人出は十七万人といわれ、戦災を受け焼け野原になってから以来のよろこびでした。
 これだけの選手を育てたのは、戦後の食料難のとき苦労して食物を手に入れて食べさせ力をつけた母正子の慈愛のたまものでありました。