第281回

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池底の三婆   文 郷土史家 佐々木 一

 山下 かね   小森 しげ   山下 みね
 大字池底には「三婆」と呼ぶ老い母、姥が三人ありました。婆というとあまり聞こえのよい呼び名ではありませんが、人生の大波小波を乗り越えてきた女の人をいうので、波と女を合わせて、この字になったそうです。
 昔、漢の戴聖が世に伝えた「三従」という言葉があって、女の守るべき徳として、家にあっては親を敬い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子に従うと説かれています。
 この「三婆」は、まさにこの三従を地で行く生き方をした人たちで、三人の母の実生活をみて、誰いうとなく「三婆」の敬称、呼び名になったと思われます。昔の村には、こうした畏敬すべき母たちが居て、家を守り村を守って来たのであります。
 この三人の母たちは、子を沢山生み、それを立派に育てその子を何人か先の大戦で失い、また肝心の夫も早く亡くしています。 時には胸もはり割けるばかりの深い悲しみに耐えて生き抜いて来られた人たちであります。
 一昔前の池底は、鵜川原村切っての養蚕地帯、水田の用水不足の土地では、桑を植え蚕を飼う、米より繭の方が値がよく、大切な農家収入として盛んに養蚕が行なわれました。  養蚕、蚕飼いは、家の中で出来しかも春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕と一年に四回も繭の出荷が出来、蚕飼いは女の仕事といわれて、稚蚕のときから、自分の子を育てるような心組みで飼いました。
 蚕の食べ残した残桑は、牛の餌に、蚕沙は作物の肥料になり無駄なく蚕を上手に飼い、上質の繭を作るには、女の知恵と骨折りがものをいいました。
 その母たちの生涯の、まず山下かねは、池底の甚三郎の娘に明治十四年(1881)に生まれ、二十歳の時同じ村の新二郎のところに嫁ぎ、男一人、女二人の子を産み、同四十三年(1910)夫の新二郎は三十七歳でなくなり、三人の子と沢山の田圃と畑の仕事が残されました。春蚕を飼い、急ぎ上蔟させてから麦刈り、菜種もみ、そして田植えと、一人息子の信一を頼りに懸命に働き抜き、昭和四十二年(1967)八十七歳で亡くなりました。
 そして、小森しげは、隣村の大強原に明治十九年(1886)に生まれました。同四〇年(1907)池底の夫、常一のところへ嫁いで来て、夫婦の間に男三人、女二人の子を儲けました。 夫の常一は昭和十一年(1936)に亡くなり、しげは五十歳で後家となりました。夫の常一は当時、養蚕経営に熱心な人で、新しく養蚕部屋を建て飼育方法を研究、蚕室の温度の調整や通風乾燥にも注意し、殊に蚕の病気「オシャリ」の予防に努めました。男子三人の子の二人を先の大戦で惜しくも失い悲しい目に逢いました。昭和四十二年(1967)八十二歳で亡くなりました。
 山下みねは、県村下海老原に明治二十二年(1889)に生まれ、二十歳で池底の夫、孫太夫のもとへ嫁いできました。孫太夫の家は小作地を持つ裕福な自作農でした。それが夫の孫太夫は生来酒を好み、人にも振舞うのでその酒代が嵩み、そのため妻のみねは家計のやり繰りに苦労を重ねました。
 そこへ男四人、女五人の子が授かり、孫太夫は昭和十二年(1937)に亡くなり、 みねは四十八歳で後家になり、残された九人の子の養育と、田畑の管理に努めました。昭和三十六年(1961)七十三歳で亡くなりました。
 さて、今年の夏は格別酷しい暑さでした。しかし、この「三婆」の時代は稲の出穂期には「出穂に火焚け」といい、焼けつく様な暑さをよろこんで、田んぼの水が湯の様に沸き返る、その中へ飛び込んで田の草取りをしたものです。
 生涯、ただ俯いて汗して働き抜いた母たちの労苦を思うとき、思いきり大きな声でお母さんとよんで見たい気がいたします。